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話・はなし・噺・HANASHI

第六十五回

北京の旅の穴場

 北京で暮らして半世紀、いろいろの所を観て歩いてきましたが、なにしろ都としても三千年の歴史を持つ古都、まだまだ足を運んでいない所がたくさんあります。北京の燕山出版社の出した『北京名勝古跡辞典』には千二百六十項目の名勝古跡を紹介していますが、わたしが観たのはせいぜい百ヶ所程度でしょう。この百ヶ所も「走馬看花」――馬の背の上での見物で、もう一回訪れてみたい所も少なくありません。その一つは、北京市と河北省の境にある易県です。


清西陵の珍妃の墓

 易県は、北京から西南へ車で一時間ちょっと北京市を出たばかり、まず河北省の西の玄関といったところです。ここでの最大のみものは、清王朝の西陵でしょう。清王朝の皇帝は北京の東側の東陵と西側の西陵に分かれて葬られていますが、西陵には雍正帝(1722~1738年)、嘉慶帝(1796~1820年)、道光帝(1820年~1850年)、光緒帝(1874~1908年)とその皇后が葬られています。また、浅田次郎さんの『珍妃の井戸』に描かれている光緒帝最愛の妃であった珍妃の墓もあります。珍妃は改革を進める光緒帝を全力をあげて助けますが、この改革に反対する当時の清王朝最大の実権者西太后の命で井戸に投じられて溺死するという悲惨な死を遂げています。その遺体は北京西郊外、西直門に近い外田村に埋められました。清王朝崩壊後、心ある人の手でこの西陵に移され、光緒帝の陵の東側に墓が造られ(写真①)、ねんごろに葬られました。

 秋の西陵を訪れ、光緒帝・珍妃二人がやっと永遠に結ばれているのを目にしてほっとしたのを覚えています。野菊が夕陽に輝いていました。

 もう一つ、易県を訪れたらぜひ足を運びたい所があります。三千年も前の話ですが、北京に都を置いていた燕が、強国秦の攻撃を受ける危機に見舞われました。この危機を逃げれるために、燕は秦の始皇帝を暗殺することを決め、刺客荊軻を秦に送り込むことにしました。そして、燕の太子丹が易県を流れる易水という川のほとりで荊軻を見送ったのですが、荊軻は船の上で「風蕭蕭として易水寒し、壮子ひとたび去ってまた還らず」と声高らかに歌って見送る人たちの涙を誘いました。この故事は日本にも伝えられているようですが、この舞台を見たいと地元の人に言うと案内してくれたのが、(写真②)です。地元の人は確証はありませんと話していましたが、わたしはここだと大きく頷きました。なにか、荊軻のあの歌声が響いてくるようでした。


易県を流れる易水

 おまけというか、もう一ヶ所。三国時代の蜀の皇帝劉備の生まれ故郷が、易県から北京に帰る通り道にあるのです。北京市と河北省の境の街涿州です。劉備はここで生まれ、この土地の大商人の用心棒のような仕事をしていました。親分肌の劉備のまわりには若者が集まり、そのなかにはのちに同志となった関羽や張飛もいました。この三人が「桃園の義」を結んだ跡や張飛が使っていた井戸も残されています。

 ここで車を止めて一服するのもいいでしょう。劉備をはじめ関羽や張飛の末裔たちの顔を見ることができ、「日本から来た劉備の大ファンです」といえば、ちょっとお話ができるかもしれませんよ。

 今日は、北京旅行の穴場の中の穴場、易県をご紹介しました。

作者のプロフィール

 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。

紹介した内容

第六十五回 北京の旅の穴場
第六十四回 圧歳銭
第六十三回 年の瀬に
第六十二回 涮羊肉と砂鍋白菜
第六十一回 酒鬼
第六十回 漢字の危機
第五十九回 「わたしの夢」さし絵
第五十八回 赤子の心
第五十七回 菊の花と人の顔
第五十六回 馮小剛・莫言
第五十五回 国慶節・天安門・私
第五十四回 エジソンと携帯電話
第五十三回 仲秋節
第五十二回 秋到来
第五十一回 同姓同名
第五十回 王府の今昔
第四十九回 光盤行動・低配生活
第四十八回 -禿三話-
第四十七回 交通マナー雑議
第四十六回 苦熱・溽暑
第四十五回 「雑家」の「雑文」
第四十四回 思い出のラジオ番組
第四十三回 大学受験シーズン
第四十二回 五月の色
第四十一回 ―法源寺・鑑真和上―
第四十回 北京の若葉
第三十九回 煙巻褲(イエンヂュエンクウ)
第三十八回 踏青
第三十七回 シルクロードの旅点描
第三十六回 シルクロード点描②
第三十五回 シルクロード点描①
第三十四回 春の装い
第三十三回 春を探ねて
第三十二回 擲球之戯
第三十一回 春節と餃子

第三十回 「武」という漢字
第二十九回 緑の引っ越し
第二十八回 北京っ子と風邪
第二十七回 橄欖球・水泳・羽毛球
第二十六回 足球・篮球・乒乓球
第二十五回 九九消寒図
第二十四回 北京の冬
第二十三回 衣がえ
第二十二回 落ち葉
第二十一回 老舎と菊
第二十回 中日共同世論調査をみて②
第十九回 中日共同世論調査をみて①
第十八回 天高気爽③
第十七回 天高気爽②
第十六回 秋高気爽①
第十五回 納涼④
第十四回 納涼③
第十三回 納涼②
第十二回 納涼①
第十一回 男はつらいよ
第十回 苦熱
第九回 胡主席の卓球 温首相の野球
第八回 麦の秋
第七回 柘榴花・紅一点
第六回 漢字と笑顔
第五回 五月の香り
第四回 北京の古刹法源寺
第三回 井上ひさしさん
第二回 SMAPと中国語
第一回 春天来了

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