第三十三回 春を探ねて
二月に入り二十四節気の立春を過ぎると、わたしの頭のなかには「探春」(春を探ねて)という漢詩が浮かびます。宋(960~1279年)の戴益の詩です。生歿年不詳、残されているのもこの詩一首だけという人です。でも、私がとても好きな詩なのです。今回は、この詩をとりあげてみました。
まず、中国文です。
盡日尋春不見春/芒鞵踏遍隴頭雲/帰来適過梅花下/春在枝頭已十分
日本語で読み下してみましょう。
尽日(じんじつ)春を探ねて春を見ず/芒鞵(ぼうあい)踏み遍(あまね)く隴頭(ろうとう)の雲/帰来(きらい)適(たまた)ま過ぐる梅花(ばいか)の下(もと)/春は枝頭(しとう)に在(あ)りて已(すで)に十分なり
次は自己流の日本語訳です。
春をたずねてひねもす行けど春を見ず/わらじ履きあまねく踏めど梅は無し/帰り来てたまたま過ぎし梅の下/春すでに枝先にありて十分なり
おしまいはわたし流のデッサンです。
暦の上では立春、しかし北国北京の風はまだ冷たい。春はまだかと街を彷徨ったが、見当たらない。淋しく家に帰り門前でふと見上げた梅の木の枝先静かに澎らんでいた。春を知らせていた。幸せを探し求める人生の旅路もそんなものかも知れない。幸せは足もとに、すぐ近くにあるもかも知れない。
二月も下旬になると、お昼ごはんを済ませたあと、ときどき散歩に出かけます。そして、街路樹のアカシアの枝先、河の畔の柳の枝先、庭の白モクレンの枝先……とあの樹、この樹を見て回ります。一日一日ではわかりませんが四、五日空けて見ると枝先が静かに膨らんでいるのを感じ、春近しと心で微笑みます。
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――ものの本には、戴益の「探春」の詩意は孟子(紀元前372~289年?)の「道は近きにあり。しかるにこれを遠きに求む」ということばにあると春かれています。
これまで歩んできた人十年を振り返ってみますと、往々にしていつも道を遠くに求めがちだったような気もします。これは欠点なのか優点なのか。まだわかりませんが、残り少なくなった人生、もう少し近くに道を求めていきたいなと思う今日このごろです。まず手始めに、目の前にあるこのコーナーをもう少しましなものにしようかなと思っています。
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