"わたしの夢"さし絵
第59回
李順然
梅原龍三郎 北京秋天 ――東京国立近代美術館蔵――
今年(2013年)の始めに、わたしの最初の中国語の本『二十世紀人留給二十一世紀人的故事』(「20世紀人が21世紀人に遺す故事」)という本が、わたしの傘寿を記念して出版されました。一つの夢がまわりの人たちの後押しで実現されたのですが、この本の序で先輩の中華日本学会名誉会長の劉徳有さんが「李順然氏はアイデアマンである」と書いているのに恐縮して「わたしの"アイデア"は粗製乱造のしろもので、千発一中、いや万発一中、適当に聞き流してください」とお願いしました。
たしかに、わたしは子どもの頃から夢をみるのが好きで、夢でみたこと(わたし流のアイデア)を親や先生方におわだりして大人たちを困らせていたそうです。大人になって社会に入ってからも、ついついあれやこれや思いつきを先輩たちの前で口走ってしまい、迷惑をかけてしまいました。こうした「万発一中」から外れた九千九百九十九発のなかにも自分ではちょっと惜しかったなと思ったものもあります。このコーナーを借りて、一つ、二つの記録しておき、後人の笑い草としましょう。
まず、スケールの大きなもの。1980年代のことです。一号バスで天安門の前を通るたびに、人民大会堂の西側にある広いサラ地に熱い目を注ぐのでした。天安門広場が44万平方メートルといいますから、ここも数十万平方メートルはあるでしょう。ここを松やこの手がしわなど北京の土地にあった草緑樹の林にして、ところどころに休憩に使えるあずま屋を建て、ところどころに花園を設け、池や噴水も造り、子どもの遊び場も考えたら、きっと北京市民や地方からきた観光客に喜ばれる憩の場となるだろう。もちろん、塀とか棚とかの無い開放的な広場です。わたしは、バスの窓から広いサラ地に目を注ぎながら、こんな夢をみるのでした。
この夢、会議の席などで話すと、「森の都の復活だ」とか、「北京の空気がよくなるね」とか、「夏の気温がいくぶん下がるかも」とか、「北京の新名所になること確実」とか……こうしたわが意を得たりということばについつい悦に入っていたある日、「国家大劇院建設地決定」という見出しのニュースを新聞でみて愕然としました。地点はなんとわたしが目を着けていたあのサラ地ではないですが、一週間ほど、意気消沈としていました。
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