さて、週刊誌『生活』の表紙の「漢字の危機」というショッキングな文字ですが、わたしが体験した最初の「漢字の危機」は、コンピューターの出現でした。コンピューターにすんなりと漢字が入力できるかどうかという心配でした。これは中国人の知恵で思ったより簡単に解決され、いまでは英語と同じ程度のスピードで入力できるようになっています。
昨今の心配は、将来漢字を読むこともでき、コンピューターを使って漢字の立派な文章も「書」けるが、手書きは出来ないという人が増え、さらにはほとんどの人がそうなってしまうのではないかという不安です。
週刊誌『生活』のページを捲っていると、その道の大家の先生方は、このことそれほど心配していないようです。言語学者の周有光先生は、長い眼でみれば漢字の出路は符号化だろうとされています。これは漢字の変遷の法則のようなものだというのです。こうしてはじめて、中国の言語をグローバルなものとし、世界との交流をスムーズに進めることができるというのです。
それでは、そういう時代に入ったら、中国の古書古文の研究(漢詩をもふくめて)書道……などなどはどうなるのか、そんな不安が頭を掠めました。目を皿にして、『生活』のページを捲ってみました。わたし流に理解すると、こういうことらしいのです。そうした時代になっても、少数の人は書道の道を歩み続けるだろうし、少数の人は古書、古文に没頭するだろう、大学にもこうした面の研究所が残るだろう……漢字を道具とした中国の歴史、文化、芸術、学術の研究は、いっそう深み持つだろう。漢字はいっそう輝きを放つだろう。
わたしは、なるほど、なるほどと頷きながら『生活』のページを閉じました。五十年先き百年先き、いやいやもっと先きの話かも知れませんが、いままでなんとなく使ってきた漢字とあらためて正座して向いあい、いくらか高い所から漢字の変遷の法則のようなものを感じたような気になりました。先生方にはまったく失礼な空談議で失礼しました。
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