会員登録

第六十回 漢字の危機

 右下の写真は、中国でよく読まれている週刊誌『生活』(2013年8月12日号)の表紙です。「漢字の危機」という見出しで、中国の漢字の問題を特集していました。「漢字の危機」の見出しの上には、「馬」という漢字の変遷を甲骨文字から順に現代簡体字まで並べて示しています。「漢字の危機」の四文字のうち、「漢」「機」は、1950年代に進められた「文字改革」で誕生した「簡体字」の「汉」「机」です。その上の「馬」の右端も、この「文字改革」で誕生した「簡体字」です。

 あれから六十年、四十歳以下の人の多くは「漢」「機」「馬」などは、「汉」「机」「马」と「簡体字」だけしか書けなくなっているようです。「机」は、どうみても日本では「ツクエ」ですよね。これが、どうして中国では「機」の「簡体字」なのか、それにはそれなりの「法則」があるのですが、今回はスペースの問題もあるので省略させていただきます。

 週刊誌『生活』の漢字特集、北京師範大学古代漢語研究所の李遠富所長、北京語言大学情報科学学院の宋柔教授ら、その道の大家を取材するなど、とても内容のあるものなのですが、なにせ、スペースの制約、それ以上にわたしの能力の制約、雑談的な読後感で勘弁していただきましょう。

 まず、三千五、六百年も昔の甲骨文字に源を発した漢字、その流れを辿ってみると秦の始皇帝(B.C.259 ~B.C.210)の文字統一の際、ちょっと複雑になったことがありましたが、そのあとはずっとおおむね簡略化に向かっているようです。ぐっと下だって中華人民共和国誕生直後の1950年代に進められた「文字改革」で517字の「簡体字」が生まれました。この雑文の冒頭で触れた「汉」「机」「马」などは、この「文字改革」で生まれた「簡体字」なのです。

 
 さて、週刊誌『生活』の表紙の「漢字の危機」というショッキングな文字ですが、わたしが体験した最初の「漢字の危機」は、コンピューターの出現でした。コンピューターにすんなりと漢字が入力できるかどうかという心配でした。これは中国人の知恵で思ったより簡単に解決され、いまでは英語と同じ程度のスピードで入力できるようになっています。

 昨今の心配は、将来漢字を読むこともでき、コンピューターを使って漢字の立派な文章も「書」けるが、手書きは出来ないという人が増え、さらにはほとんどの人がそうなってしまうのではないかという不安です。

 週刊誌『生活』のページを捲っていると、その道の大家の先生方は、このことそれほど心配していないようです。言語学者の周有光先生は、長い眼でみれば漢字の出路は符号化だろうとされています。これは漢字の変遷の法則のようなものだというのです。こうしてはじめて、中国の言語をグローバルなものとし、世界との交流をスムーズに進めることができるというのです。

 それでは、そういう時代に入ったら、中国の古書古文の研究(漢詩をもふくめて)書道……などなどはどうなるのか、そんな不安が頭を掠めました。目を皿にして、『生活』のページを捲ってみました。わたし流に理解すると、こういうことらしいのです。そうした時代になっても、少数の人は書道の道を歩み続けるだろうし、少数の人は古書、古文に没頭するだろう、大学にもこうした面の研究所が残るだろう……漢字を道具とした中国の歴史、文化、芸術、学術の研究は、いっそう深み持つだろう。漢字はいっそう輝きを放つだろう。

 わたしは、なるほど、なるほどと頷きながら『生活』のページを閉じました。五十年先き百年先き、いやいやもっと先きの話かも知れませんが、いままでなんとなく使ってきた漢字とあらためて正座して向いあい、いくらか高い所から漢字の変遷の法則のようなものを感じたような気になりました。先生方にはまったく失礼な空談議で失礼しました。

作者のプロフィール

 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。

紹介した内容

第五十九回 「わたしの夢」さし絵
第五十八回 赤子の心
第五十七回 菊の花と人の顔
第五十六回 馮小剛・莫言
第五十五回 国慶節・天安門・私
第五十四回 エジソンと携帯電話
第五十三回 仲秋節
第五十二回 秋到来
第五十一回 同姓同名
第五十回 王府の今昔
第四十九回 光盤行動・低配生活
第四十八回 -禿三話-
第四十七回 交通マナー雑議
第四十六回 苦熱・溽暑
第四十五回 「雑家」の「雑文」
第四十四回 思い出のラジオ番組
第四十三回 大学受験シーズン
第四十二回 五月の色
第四十一回 ―法源寺・鑑真和上―
第四十回 北京の若葉
第三十九回 煙巻褲(イエンヂュエンクウ)
第三十八回 踏青
第三十七回 シルクロードの旅点描
第三十六回 シルクロード点描②
第三十五回 シルクロード点描①
第三十四回 春の装い
第三十三回 春を探ねて
第三十二回 擲球之戯
第三十一回 春節と餃子

第三十回 「武」という漢字
第二十九回 緑の引っ越し
第二十八回 北京っ子と風邪
第二十七回 橄欖球・水泳・羽毛球
第二十六回 足球・篮球・乒乓球
第二十五回 九九消寒図
第二十四回 北京の冬
第二十三回 衣がえ
第二十二回 落ち葉
第二十一回 老舎と菊
第二十回 中日共同世論調査をみて②
第十九回 中日共同世論調査をみて①
第十八回 天高気爽③
第十七回 天高気爽②
第十六回 秋高気爽①
第十五回 納涼④
第十四回 納涼③
第十三回 納涼②
第十二回 納涼①
第十一回 男はつらいよ
第十回 苦熱
第九回 胡主席の卓球 温首相の野球
第八回 麦の秋
第七回 柘榴花・紅一点
第六回 漢字と笑顔
第五回 五月の香り
第四回 北京の古刹法源寺
第三回 井上ひさしさん
第二回 SMAPと中国語
第一回 春天来了

関連コラム