その三
1949年の夏が秋のことです。汚職・腐敗の蒋介石国民党政府にはすっかり愛想を尽かし、かなり中国共産党贔屓になっていた親父が北京放送の日本語番組を聞こうと、とても性能のいいラジオを手に入れました。たしか、午後五時半ごろからの短い番組でしたが、その時間になると親父はラジオの前に座って静かに耳を傾けていました。高校一年、十六歳だったわたしも時々親父の横に座って聞きました。中国人民解放軍が南方の都市を開放していくニュース、中華人民共和国成立のニュース、朝鮮戦争のニュース……、中国共産党贔屓になっていたわたしも、胸をわくわくさせて聞きました。ラジオを聞いたあと、親父が「とうとうわたしたちの国が生まれた。中華人民共和国だよ」と言ったのがとても印象に残っています。
そうこうしているうちに、1953年にわたしはとうとう「わたしたちの国」に帰ってきたのです。そして、縁は異なもの味なもの、北京放送の日本語部で働くようになったのです。リスナーからアナウンサーに衣がえしたのです。
東京で聞いていたころの北京放送のアナウンサー王艾英さんとも会いました。もう五十近いおばさんでしたが、わたしの手を握って「よく帰ってきたわね。大歓迎よ」と言ってくれました。涙が出るほど嬉しく、実家に帰ってきたなと実感しました。
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思い出のラジオ番組、どうしたことか小学一年、中学一年、高校一年、いつも一年坊主のとき、そしていつも親父の傍らで聞いていました。
早く母を失ったわたしの家では父は再婚もせず父母兼業、わたしたち兄弟(兄三人妹一人)をとても可愛がってくれました。父はわたしたちのことを上から泰ちゃん、恭ちゃん、恵ちゃん、順ちゃん、瑤瑤ちゃんとちゃんづけで呼び、わたしたちも親父を「パパちゃん」とやはりちゃんづけで呼んでいました。世のなかにこんなに好きパパはないとよく兄弟で話しあっていました。いまも存命の妹とは顔をあわすたびに、電話で話すたびに好きパパの思い出ばなしの花を咲かせています。
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