わたしの本籍は台湾の台北市、甲午戦争(日本でいう日清戦争)で敗れた清王朝は台湾を日本に割譲り、台湾人は「日本人」にされてしまうのですが、まったくの「三等国民」でした。大学生のころ、「台湾ハゲ」と罵られて「カツ」となり、数人の日本人の級友と大喧嘩をし打ちのめされ、血だらけになって立ち上がれなかった屈辱の歴史は、いまも忘れられません。わたしの八十年の生涯で殴りあいの喧嘩をしたのはあの一回だけ、ふだんは仲の良かった友だちだっただけに、悲しくもあり、残念でもありました。
日本の無条件降伏によって、「台湾人」は「三等国民」から一躍「連合国人」になりました。一九四五年のことです。中学一年生だったわたしは、「青天白日」の「中華民国」のパッチを胸に付けて東京の街を闊歩しました。はじめて「わが国」を感じ、喜こびに浸りました。それも束の間、台湾にやって来た蒋介石一派は悪事のかぎりを尽くし、父は台湾に入るのも許されず、財産も没収されてしまいます。束の間の「わが国」は、わたしからも、わたしの家からも遠い存在となってしまいました。
そうこうしているうちに、中国大陸の方からは中国共産党をその軍隊中国人民解放軍の活躍ぶりが刻々と伝えられてきました。その決定打となったのは、北京での中華人民共和国の誕生と朝鮮での中国人民志願軍の勝利でした。わたしの心のなかの「わが国」は、完全に中国大陸に移りました。
そして、一九五三年の秋、心を弾ませて「わが国」に帰ってきたのです。一日も早く「わが国」のために働きたいという希望が入れられて配属されたのが、なんと国外でずっと心の支えとなっていた北京放送局日本語組でした。「わが国」で「わが家」に帰りついた嬉しさでした。東京でその声を聞いていた北京放送の初代アナウンサー王艾英さんともお会いしました。日本生まれ、お茶の水女子大学で学び、中国革命の聖地延安で鍛えられた心のやさしいそうなおばさん。「しっかりがんばってね」と励まされました。
「光陰矢の如し」、「わが国」の「わが家」での六十年、「わが国」「わが家」の人たちとともに歩み、ともに喜こび、ともに苦しんだ六十年、まったく悔いのない日々でした。これからも、「わが国」「わが家」とともに、六十年歩み続けて来たこの道を、この足で一歩一歩歩んでいきたいと思っています。細くて、頼りない足ですが……。
追記:この雑文、「わが国」という言葉の連発でしたが、わたしはこの「三文字」にとても愛着お持っています。異国で異国の人に語るこの「三文字」、異国で同胞に語るこの「三文字」ここには祖国に寄せる愛と誇りが溢れているのです。自分と切り離すことのできない一心一体の「おれの国だぜ」というおもいが込められているのです。
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