第四回
北京の古刹法源寺
風薫る五月、北京の五月の平均気温は19.9度、最高気温は36.6度、最低気温は3.7度、最高と最低の差がなんと30度、つまり下旬を迎えると一気に気温があがり、初夏になってしまうのです。
そこで五月の声を聞くと、わたしはもうこれ以上伸ばせないと、いそいそと北京の中心部、胡同(横丁)のなかにあるこぢんまりとした古刹、ライラックの寺といわれる法源寺を訪れ、ライラックの香りを楽しむのです。また、境内の唐代の松、宋代のこのてがしわ、遼代・金代の石像、石碑、清代の乾隆帝の御筆「法海真源」などに囲まれて、北京の歴史を、中国の歴史を振り返るのです。
法源寺が建立されたのは、唐の貞観十九年(645年)のことです。高句麗遠征に失敗した唐の第二代皇帝太宗李世民(599~649年)がこの戦いで命をおとした将兵を弔うために、この寺を建てたといわれています。
| 唐代といえば、大詩人李白(701~762)が天宝17年(752年)に一ヶ月ほどを訪れ、独楽寺などのお寺参りをしています。きっと法源寺にも足を運んだのではと独断的に考えています。日本の奈良に唐招提寺を建立した鑑真和上(688~763年)も法源寺で修行したことがあるという説があります。開元元年(713年)に法源寺で修行したというのです。北京史の研究者成善御氏が『老街漫歩・北京』でそう書いています。
下って宋代にも、いろいろの人が法源寺に足跡を残しています。変ったところでは、宋の皇帝欽宗です。北京が金の副都となっていたころ、金に降伏した宋の皇帝徽宗と欽宗が北京に連行され、欽宗はしばらく法源寺に軟禁されていたというのです。これは、独断ではなく、史料にもきちんと記されています。
ちょっと飛んで近・現代では毛沢東さん(1893~1976年)がフイアンセの楊開慧さん(1901~1930年)と一緒に、1919年この寺を訪れた記録が残っています。新中国誕生で国家出席となった毛沢東さんは、1957年に北京で書いた「蝶恋花 李淑一に答える」という詞で「我(われ)は驕(ほこり)たかき楊(よう)を失(うしな)い」と楊開慧を偲んでいます。
法源寺をめぐるエビソード、くわしく話していけば一冊の本になるほどありますが、やはり「百聞は一見に如(し)かず」、北京旅行のスケジュールにちょっと余裕がありましたら、ぜひ法源寺に足を伸ばすことをお勧めします。北京の中心からタクシーで10分か15分、運転手さんに漢字で「法源寺」と書いて渡せば連れていってくれることでしょう。
| |
|
|
|
|
作者のプロフィール 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
| |
|
紹介した内容 関連コラム |