第五十七回
――菊の花と人の顔――
その昔、菊は「鞠」とも書かれていました。字典によれば、鞠という字は事物の終末を意味するそうです。中国では、菊は薬としても長い歴史を持っていますが、明の時代の学者李時珍(1518~1593年)の書いた『本草綱目』という薬物書には、菊は花のうちでも一年のいちばん終りに咲くところから、鞠と名づけられたと記されています。
一年でいちばん終わりに咲く花、これが菊の評判を高めている理由の一つなのかも知れません。唐の詩人元稹(779~831年)も、「菊の花」という詩で「是(これ)は花の中に偏(ひとえ)に菊を愛するのみにあらず、この花の開きてのちに更に花の無ければなり」と詠っています。
一年のいちばん終りに咲く花、菊は見る人を感傷の世界に誘うようです。そのせいでしょうか。菊を描いた詩歌には、なにか侘(わび)しさ、悲しさを感じさせるものが少なくありません。唐の詩人、詩聖といわれる杜甫(712~770年)は、その秀作「秋興」で「叢菊ふたたび開く他日の涙、孤舟一(いつ)に繋ぐ故園の心」と詠っています。
下って、宋の時代の詩人陸游(1125~1210年)も同じ「秋興」というタイトルの詩を書いていますが、その詩は豪壮の気骨に溢れているのに対して、悲秋詩人の杜甫の「秋興」は哀愁綿々としたもので、親友である詩仙李白もこれに異をとなえ、「我は覚(おぼ)ゆ秋興の逸(すぐ)れたるを、誰か言う秋興は悲しと」と記しています。
こうした菊を人生の哀歓に絡めて詠う詩人とは距離を置いて、ただただ菊の美しさに溺れ込んでいる詩人もいます。唐の詩人司空図(837~908年)です。司空図は「白菊雑書」という詩で「此の生只だ是れ詩債を償(つぐな)うのみ、白菊開く時最も眠られず」――「わたしが生まれてきたのは詩を作るためだけ、白菊が開くころはその美しさを綴った詩を作るのに忙しく眠るひまもない」と詠っています。悲秋派、頌秋派のそとに居る耽美派とでもいうのでしょうか。
――。――
十月の北京は秋の陽に輝く菊の世界です。天安門広場も菊の海原、ここを中心に公園や広場、胡同(北京風の横丁)……白、黄、赤の菊が明るく輝き、清清しい香りを放っています。人の流れに誘われてぶらりぶらりと散策しているうちに、知らず知らずに菊の花と人の顔を見くらべていました。たいへん失礼なことなのですが、この人は杜甫型かな、この人は李白型かな、この人は司空図型かな、それとも耽美派かな……と。
ふと気が付くと秋の陽は西に沈み始めていました。あわてて家路についたのですが……。これは、十年前、国慶節(中国の建国記念日)の天安門前広場でのわたしの実体験、忘れられない北京の秋の一齣です。ちなみに、わたしは李白型を自認しています。
|