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第四十回  北京の若葉

 北京の季節は花の四月から若葉の五月に移りました。森の都の街路樹の緑がみずみずしい輝きを放っています。日本でも俳句の季語では柿若葉、梅若葉、桜若葉などというそうですが、北京の街路樹の若葉も、ポプラ若葉、いちょう若葉、アカシア若葉といろいろです。一日一日と目に見えて大きくなっていくポプラ若葉、色も形も子供の手の平のように可愛らしいいちょう若葉、小さな葉を追うように白い小さな花を着けるアカシア若葉、それとは逆に白い花を落としたあとに緑の葉が出る白木蓮若葉。若葉のトンネルをくぐると、それぞれ違った香りを放ってくれます。

 五月の緑といえば、頭に浮かぶのは長谷川照子さんのことです。ベルタ・マヨ――五月の緑というエスペラントのペンネームを持つ長谷川照子さんは、抗日戦争の前夜に東京で中国の留学生と結婚し中国に渡りました。抗日戦争が始まると、武漢や重慶の放送局のマイクを通じて「反戦平和」「銃を中国に向けるな」などと訴えて、中日友好のかけはしとして汗を流した日本の女性です。


中国東北地方チャムス郊外にある長谷川照子さんの墓

 長谷川照子さんについて、当時の東京の『都新聞』(――のちの『東京新聞』)は、1938年11月1日の紙上で「流暢な日本語を使って祖国にたいしして誤れる放送をする嬌声の売国奴だ」と書いていますが、のちの中国の名宰相周恩来さんは1941年7月27日に重慶で長谷川さんと会い「日本の新聞はあなたのことを『嬌声の売国奴』と書いているそうだが、その実、あなたは日本国民の忠実な娘、真の愛国者だ」と話したそうです。

 売国奴――わたしの頭にはふと「国賊」ということばが浮かびました。数ヶ月前のことです。もう死語となったと思っていたこのことばが、突然わたしの耳に伝えてくれたのです。南京の大虐殺記念館を訪れ、遭難者の遺影と遺骨に手を合わせ黙祷した鳩山由紀夫元首相に公然と「国賊」ということばを浴びせた日本人がいたのです。わたしの心には大きな不安が拡がりました。長谷川照子さんが「売国奴」と罵られたあの暗い夜がまた現れるのではないかと……。

 だいぶ固い話になってしまいました。五月の北京の緑、次回は唐代建立の古刹、北京市内にある法源寺に足を運んで、ここの境内のライラックの花と若葉、香りのお話しをしましょう。

作者のプロフィール

 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。

紹介した内容

第三十九回 煙巻褲(イエンヂュエンクウ)
第三十八回 踏青
第三十七回 シルクロードの旅点描
第三十六回 シルクロード点描②
第三十五回 シルクロード点描①
第三十四回 春の装い
第三十三回 春を探ねて
第三十二回 擲球之戯
第三十一回 春節と餃子

第三十回 「武」という漢字
第二十九回 緑の引っ越し
第二十八回 北京っ子と風邪
第二十七回 橄欖球・水泳・羽毛球
第二十六回 足球・篮球・乒乓球
第二十五回 九九消寒図
第二十四回 北京の冬
第二十三回 衣がえ
第二十二回 落ち葉
第二十一回 老舎と菊
第二十回 北中日共同世論調査をみて②
第十九回 中日共同世論調査をみて①
第十八回 天高気爽③
第十七回 天高気爽②
第十六回 秋高気爽①
第十五回 納涼④
第十四回 納涼③
第十三回 納涼②
第十二回 納涼①
第十一回 男はつらいよ
第十回 苦熱
第九回 胡主席の卓球 温首相の野球
第八回 麦の秋
第七回 柘榴花・紅一点
第六回 漢字と笑顔
第五回 五月の香り
第四回 北京の古刹法源寺
第三回 井上ひさしさん
第二回 SMAPと中国語
第一回 春天来了

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