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 この絵は老舎夫人胡絜青さんが、老舎を深く偲んで描いてくださったものだ。夫人は「老舎のいちばん好きな花は菊でした」と語っている。それでは垣根の上から菊の花に向って囀る一羽の雀は・・・・・・。これ以上、ことばを添えることはないだろう。それは文字通り「蛇足」、強いてことばを添えればそれは冒涜となるであろう。

花を愛する硬骨漢―――老舎

 取材で老舎さんの家を訪れたことが二回あった。北京放送日本語部の日本人スタッフ中川四郎さんとご一緒だった。中川さんは1960年代初期に亡くなられているので、1950年代末か1960年代初めのことだったと思う。

 一回はお庭の菊の花が満開で輝いていたから秋、もう一回はお部屋の水仙が清々しい香りを放っていたから冬だったと記憶する。

 取材といっても、ざっくばらんのおしゃべりといった感じで、老舎さんが中川さんにあれこれと日本のことを聞く場面もあった。

 二回とも、花造りのはなしが弾んだ。お庭の菊もお部屋の水仙も老舎さんがご夫人胡絜青さんと一緒に丹精込め育てたものだそうだ。

 ある年の秋、もう花を開き始めた庭の菊が、長雨で倒れた土塀の下敷きになって潰されてしまった話をする老舎さんの表情は悲しみに溢れていた。胡絜青さんは、老舎は菊の花がとても好きだったという。

 1966年の春から始まった「文化大革命」、老舎さんは真っ先に「四人組」の激しい攻撃を受けた。心にも、身体にも深い傷を負った。だが、老舎さんは決して頭を下げなかった。胸を張って「四人組」と真っ向から対決した。そして自尽した。可愛がってもらった祖母の住んでいた家に近い北京西北部の太平湖のほとりで……。身を捨てて「四人組」を糾弾する壮烈な死だった。

 1976年の秋、暗黒の「文化大革命」の十年に終止符が打たれた。

 しばらくすると、老舎夫人の胡絜青さんとご長男舒乙さんが綴った老舎を偲ぶ文章が新聞や雑誌に載った。どの文章も深い悲しみと激しい憤りを感じさせ、涙なしには読めないものだった。舒乙さんの文章で知ったのだが、老舎の号「舎予」は「予を捨てる」、つまり「民衆のよりよい社会のために命を捨てる」という決意の表明だと知って強く心を打たれた。花を愛し、民衆を愛した老舎は、筋金入りの硬骨漢だったのである。

 わたしは、老舎を記念することばを書いていただこうと、わたしのサインブックを胡絜青さんにお渡しした。一週間ほどして送り返されてきたサインブックには、垣根の傍らに咲く白、黄、赤の三輪の菊の花、垣根に止ってその菊の花に向って囀る一羽の雀の絵が描かれていた。秋の陽の下で、静かに語りあう老夫婦の清雅な姿が感じられる美しい絵だった。老舎さんと胡絜青さんは1930年に出会い、翌年に北京の母親のもとで結婚する。老舎さんは済南の斉魯大学の若手教授、胡絜青さんは北京師範大学の学生だった。それから30数年、たがいに愛しあい、慕いあい、励ましあい、誠実、善良に苦楽を分かち合って生きてきた中国知識人夫婦の暮らしをかいま見るような清らかな心のこもった絵だった。胡絜青さんは、中国画壇の巨匠斉白石のもとで絵を学んだ女流画家である。

 それから数年たったある日、わたしのもとに東京の北京放送を聞く会理事長の宮原勲さんから一通の手紙が届いた。長野県の北京放送を聞く会と中国語を学ぶ会から贈られた桜、東京の北京放送を聞く会と日中交流倶楽部から贈られた松が植えられている北京放送の庭の桜松園に記念のプレートを立てたいので、なにかひとこと書いて欲しいというのだ。

 わたしはこの手紙を持って当時の北京放送局局長張振華さんをたずねて一筆お願いした。張さんは日本語部で14年間働いたことのある日本語部OBなのだ。張さんは手紙をわたしに返してこう言った。

 「リスナーは李さんに書いてほしいと言っているんですよ。わたしの出る幕ではありません。李さん、いいことばを考えて書いてくださいよ」

 こうしてボールはふたたびわたしのもとに帰ってきた。無い知恵を絞ってこんなことばを書いてみた。四分の三は老舎さんのエッセイ「養花」からの借用、最後のひとことは北京放送という「中日友好のかけ橋」に立って、この半世紀、雨の日も風の日も一生懸命に働き続けたわたしの心の実感からでたことばだ。

 「老舎先生は『喜びあり憂いあり、笑いあり涙あり、花あり実あり、色あり香りあり……これが花を育てる楽しみだ』と語っている。中国両国民の友情の花を育てる楽しみもそうだろう」。

 このプレートは、いまも桜松園に立ってリスナーから贈られた桜や松の成長を見守っている。桜は、松と並んで長寿な樹で、日本には樹齢千年の桜もあると聞く。北京放送の庭の「桜松園」の桜と松が、子子孫孫にわたってその緑を保ち伝え、花を開き続けてくれるよう願っている。

 

 追記:

 日本の作家井上靖は「老舎は東方文化を代表する人だった」と言った。

 中国の作家巴金は「老舎同志は中国の知識人のもっともよい典型だといえよう」と言った。

 ある人は「もしも『文化大革命』の悲劇がなかったら、ノーベル文学賞受賞の最初の中国人は老舎だっただろう」と書いている。わたしもそう思う。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』

東眺西望(三十一)歴史の語り継ぎ――趙安博
東眺西望(三十)膝を交えて改革論議――張香山
東眺西望(二十九)皇族から庶民へ―溥傑
東眺西望(二十八) 「天に順う」に造反した男――康大川
東眺西望(二十七) 積健為雄―趙朴初
東眺西望(二十六) 正直に話そうーー巴金
東眺西望(二十五) 鄧小平訪日随行随想(その二)
東眺西望(二十四) 鄧小平訪日随行随想(その一)
東眺西望(二十三) 八路軍の少年兵と八木寛さん その三
東眺西望(二十二) 八路軍の少年兵と八木寛さん その二
東眺西望(二十一) 八路軍の少年兵と八木寛さん その一

東眺西望(二十) 北京放送局の庭の桜
東眺西望(十九) 「誠心誠意」が生んだ麺食いの本
東眺西望(十八) 中国飲酒マナー俗説と日本
東眺西望(十七) 大晦日の夜のセレモニー
東眺西望(十六) 北京の地下鉄の駅名に思う
東眺西望(十五) 夏衍

東眺西望(十四) 夏の甲子園
東眺西望(十三) 宇都宮徳馬
東眺西望(十二) ある「本」の話
東眺西望(十一) 卵・玉子・たまご・タマゴ
東眺西望(十) 孫平化
東眺西望(九) 「まあ まあ」&「どうも どうも」
東眺西望(八) 北京「鰻丼」食べ歩る記
東眺西望(七) 井上靖
東眺西望(六) 廖承志
東眺西望(五) 杉村春子さんと北京の秋
東眺西望(四) 北京飯店509号
東眺西望(三) 外国語上達法いろは
東眺西望(二) 徳は孤ならず 必ず隣有り
東眺西望(一) 日本人上海市民第一号
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