第五十八回
「赤子の心」
毛沢東主席と中南海で話しあう中国の女性記者たち(右―陳寰さん)
中央人民放送局の女性ベテラン政治記者陳寰さんとは、ざっと半世紀のお付き合いでした。1918年生まれですから、わたしより十五歳年上、「姉上」といった感じの人でした。
わたしは20歳代後半(50年前)に、中国国際放送局の駆け出し記者をしていたころ、この陳寰さんに付いて指導者が日本からの来客に会うときの取材のお手伝いをしていたのです。とても可愛がってもらいました。
縁は異なものというか、年取って定年退職したあと、わたしたち二人は同じマンションに住むようになり、よく昔話に花を咲かせる仲になったのですが、ある日、陳寰さんのサインの入った『流光漫憶-ある女性記者の人生の旅路』というタイトルの自伝風の本をいただきました。470ページもある部厚い本でしたが、その52ページを読んでいて「ハッ」としました。ちょっとわたしと関係のある話なのです。
1971年のことだったと記憶しています。中国の対日工作の大御所的存在だった廖承志さんは、「文化大革命」で打倒され姿を消していた日ですが、1971年ごろから、ときどき新聞にその名が出るようになりました。といっても、指導者が日本の来客と会ったさい、例席者のリストの最後に、「還有廖承志」(廖承志も出席した)という五文字だけ、廖承志さんのもとで、日本関係の仕事をずっとしてきたわたしたちは、ちょっと淋しさを感じていました。
その淋しさにピリオドを打つ事件が前述した陳寰さんの回顧録の52ページにでていたのです。こんな話です。
1971年のある夜、陳寰さんが「小李、小李、好消息」(李さん、李さん、いいニュースだよ)と言いながら、日本語放送部のオフィスに入ってきました。陳さんが差し出す原稿を見ると、例の指導者が日本の来客に会ったニュースでしたが、「廖承志」の前にペンで「中日友好協会会長」と書き加えられていたのです。「周恩来総理が書き入れたんだよ。廖さん、完全に復活だ!」興奮した面持ちで話す陳さん、「よかったな!」と二人で握手したのを覚えています。すぐに夜十時のニュースのトップで速報しました。おそらく、わたしたちのニュースが全国第一報だったと思います。
この日の雑談で、陳寰さんは「わたしは廖公(廖承志の尊称)のファンですよ。明るい性格で廖さんの行く先々には、いつも笑いがあり、笑顔があった。廖承志さんはいつでも、どこでも赤子の心を失わない大人だった」と話し、机の上の紙に「孟子のことばだよ」と言って、「大人者不是其赤子之心者也(大人は其の赤子の心を失わざる者なり)」と書いてくれました。あのときの陳寰さんの笑顔、いまでも忘れられません。
ハナの坂を越して残り少なくなった人生、わたしも廖承志さんの学び、いつでも、どこでも赤子の心を忘れず、一日一日を大切に生きていきたいなと思っていきます。もちろん、大人にはとてもなれないでしょうが……
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