香港まわり 直行便 定期便
「九十九」氏の年末のコメントから日中文化交流協会の、また日中関係の来し方を綴った名作を、二、三拾って紹介してみよう。一九六四年、中華人民共和国建国15周年の年のコメントで「九十九」氏は、次のように書いている。
「国慶15周年を祝う協会代表団は往復とも、ちょっとした事件に見舞われた。往路の事件は、中島理事長夫婦に香港の通過ビザが発給されず、やむなくプノンペン経由で北京に向かったことである。
所用のため中島夫婦と杉村春子、白土吾夫は数日繰上げて帰国し、残りの六氏は十月十八日に香港から羽田へ飛ぶことになった。復路の事件はここで発生したのである。香港の啓徳空港を離陸後しばらくして、DC8機のエンジンが突如火を噴いたのである。客室の窓は黒煙の煤で目つぶしを食ったようになり、乗客は一時騒然となったが、協会の一行は泰然自若、土岐善磨団長と牛原虚彦は救命胴衣も着けずに瞑想に耽り、中川一政は状況を詩作、木村伊兵衛は機の内外をカメラに収めそのフィルムをビニールの袋に入れ救命胴衣にくくりつけていたという。機長の適切な判断で香港に逆戻り、事無きを得たが、帰国は一日遅れた」
懐かしい。あのころ、日本からの来客はすべて香港まわり、わたしも何度か広州、深圳まで日本からの来客を迎えに行ったことがある。北京から特急で四十八時間、定員四人のコンパートメントの車室にわたし一人だけということもあり、北から南へ移りゆく風景を汽車の窓から心ゆくまで楽しんだ。
もう一篇、一九七四年、中日定期航空路開設の年のコメントで、「九十九」氏はこう書いている。
「『上海空港、快晴、東の風六メートル、薄いかすみ、視界十キロ以上。日航機は八千五百メートル、全日空機は九千五百メートルで飛行プランどおり進入せよ』一九七二年八月十六日午前八時、上海空港管制塔からの声が羽田の運輸者東京航行局に飛び込んできた。女性の美しい英語である。戦後初めての日中直交便の主役、上海舞劇団の一行二百余人と、当協会代表団五人などが、日航機と全日空機に分乗し、東京から上海へ直接飛んだのは一九七二年のこと。それから二年後の七四年九月二十九日に定期航空路が開設され、日中間の往来は香港経由の煩わしさから解放され、大きく発展した」
中日定期航空路の開設によって中日間の交流はたいへん便利になったのだが、わたしの四十八時間の北京~広州の楽しい汽車の旅にはピリオドが打たれてしまった。あれから三十余年、広東には一度も行っていない。本場の広東料理ともすっかりご無沙汰している。
「記念特集」は、まさに「本」である。日本の文化人の良心、知恵、勇気にあふれる立派な「本」である。わたしは、これからも折折にこの「本」のページをひもといて心を洗い、知恵と勇気をいただきたいと思っている。「記念特集」は、わたしの座右の「本」なのである。
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