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 廖承志同志の葬式は、1984年6月25日北京で執り行われた。席上、李先念国家主席(当時)が弔辞を読み、そのなかで次のように述べた。

 「……心臓の手術を受けてからの三年間の廖承志同志は、党のために働ける時間がもう長くないことを知り、それまでにも増して意欲的に倦むことなく仕事と取り組んだ。そして一日十数時間も働きつづけ、生命の最後の一秒まで、革命のために力を尽くしたのである……」

 李先念氏が噛み締めるように語るこの一言一句、わたしの晩年の日々のかけがえのない座右の銘となって、わたしを教え、戒め、励ましてくれている。

友は多ければ多いほどいい――廖承志

 中日国交正常化交渉に中国外交部(外務省)顧問として参加し、歴史的な毛沢東・田中角栄会談にも出席した廖承志さんが、1983年6月10日の早朝に心臓病で北京で逝去された。享年75歳だった。当時は中国共産党中央政治局員、全国人民代表大会副委員長、中日友好協会会長などの要職にあった。日本の警察の牢屋に三回、中国国民党特務機関の牢屋に二回、オランダのロッテルダムの警察の牢屋に一回繋がれ、また二万五千里の長征にも参加した筋金入りの革命家でもあった。また、折りから開かれていた全国人民代表大会第六期第一回会議で国家副主席に選出されることになっていた。

 いっそうの活躍が期待されていた矢先での死で残念でならない。とりわけ、中日関係の仕事をしていたわたしたちは、仕事のことでも、生活のことでも気軽に相談できるよき師を失った悲しみで茫然とした日が続いた。

 廖承志さんについては、これまでも数篇のエッセイを書いているが、本文ではわたしが仕事をしていた北京放送日本語部をめぐる話に絞って書いてみよう。

 廖承志さんは、新中国誕生前の1949年6月に中央放送事業処処長に任命されている。全国の放送を統括する大切な仕事だ。この月の20日に、1941年12月3日からの一年半ほどの延安からの放送、1948年8月からの一年たらずの瀋陽からの放送に続いて北京放送の日本語放送が北京からの放送を始めている。もちろん、廖さんもその陣頭に立ったのだろう。日本語部のオフィスでは、部員の日本語レベル向上のため、日本語が公用語で、ほかのことばは禁物といった不文律があるが、これも廖さんがそのころ定めたものだといわれている。休み時間に、放送局の庭でよくキャッチボールをする廖さんの姿をみかけたというのも、このころのことだろう。

 その後、廖さんは放送の仕事から離れたが、中央政府外事弁公室副主任(主任は陳毅副首相兼外相)などを務め、その角度から、わたしたちにいろいろアドバイスをしてくれた。そのころの廖さんのことばから思い出に残るくだりを二・三抜き書きしてみよう。ユーモア感のある独特の話しぶりだった。

 「友は多ければ多いほどいい。敵は少なければ少ないほどいい。これは、とりわけ隣国日本にあてはまることばだ。『遠くの親戚より近くの隣人』というではないか。北京放送(日本語番組)は、いつもこのことを念頭に置いておかなければいけない。反対、批判、暴露、糾彈、打倒ばかり叫んでいても、友はできない」

 「北京放送(日本語番組)を聞いていたら、きっと中国人は笑うことを知らない人間だと思うだろう。きっと、いつも上下(かみしも)を着てかしこまっている人間だと思うだろう。その実、中国人はとてもユーモアに富んだ人間だ。君たちのまわりにも笑いがあり、ユーモアがある。北京放送の番組は、こうした笑いやユーモアにも目を向けるべきだ。なにしろ、君たちの番組は硬すぎる。花崗岩のように硬い。軟らかく、軟らかく、さらに軟らかくが、わたしの希望だ。」

 「君たち(北京放送局日本語部員)は、日本の週刊誌をみているかね。ボクは七種類目を通しているよ。一日一種類みれば一週間で七種類、その気になればさほど難しいことではない。日本の一般大衆がなにを考え、なにを求め、なにを知りたがっているか、こうしたことを知ろうとしないで放送を流しても『無的放矢』(的をみないで矢を放つ)、だれも聞いてくれないよ」

 中央政府外事弁公室の廖承志さんのもとで働き、のちに駐日公使になった丁民さんの話では、廖さんは退勤するとき必ずその日に着いた日本の新聞六種類を抱えるようにして持って帰り、家で読み、翌日オフィスに持って返ってきていたそうだ。週刊誌七種類もまんざらわたしたちに対する「脅し文句」ではないようだ。

 以上は、文化大革命(1966~1976年)前の廖さんのことばだ。守るべき原則をユーモアのなかでやさしく説く「廖承志節」から選んだものだ。

 文化大革命で廖さんは「四人組」にきびしく叩かれた。一時は、周恩来さんの配慮で毛沢東さんや周恩来さんが住んでいた中南海に避難していたこともあるそうだ。廖承志さんは、中南海で保護されていた日々、幾首か詩を作っている。そのうちの一首「浪淘沙・城北を望む(1967年)」が『廖承志文集』に収められている。詩の行間から、家に残してきた母上に寄せる、妻と子に寄せる深い情がうかがえ、その人柄の一端を知ることができるので書き抜きしてみた。「城北の原語は北城、廖承志の家は北京の北部にあった」という訳注が付いていた。多分、日本語訳は廖さんと親しかった安藤彦太郎氏(日中学院学院長、早稲田大学名誉教授)だと思う。

 浪淘沙・城北を望む(1967年)

 軒端に雨しとど、涙は冷たき衣(きぬ)を濡らす。

 欄に倚りてはるかに城北を望む。

 白髪の慈母目(ま)のあたりのごと、

 妻は優しく子ら愛らしく。

 過ぎし日は煙のごとく、

 にわかに無聊を覚ゆ、

 逆(さか)しまにわが姓書けば父祖の声聞こゆ。

 故宮の堀に花びら流れ、

 荒れたる街にとどくが夢に。

 こうした廖さんが「なかば解放」とでもいうのか、ときどきその名が小さく新聞に載るようになったころのことだ。ある日、西単に近い民族飯店で日本の訪中団に会いにきた廖さんとであった。久しぶりにしっかり握手をし、並んでソファに座った。お元気そうだったので嬉しかった。廖さんは「北京放送どうだい。このごろなにを放送してるの」と聞いた。わたしがあれやこれやの番組の名前を挙げ、また「革命模範劇」(江青の肝入で文化大革命時、全国で盛んに唱われた現代革命京劇)というと、廖さんは、とぼけた表情で「へえ、あれ北京語だろう。日本の人聞いてわかるの」と言って肩をすぼめ、二人は顔をみあわせてにこりと笑った。廖承志さんは改まった表情で言った。

 「聞くところによると、いま対外宣伝は内外不分(対内宣伝と区別がなくなっている)がひどいそうだが、この問題は解決しなければならない。周恩来総理からも北京放送を聞いて報告するよう頼まれている」

 かなりその勢いが衰えたとはいえ、まだ「四人組」が横行闊歩していたあの暗い時代、周恩来さんや廖承志さんが北京放送に心を寄せてくれていることを知り、わたしは春雷を聞いたように胸の高鳴りを感じた。春はもうそう遠くないと思った。

 1976年10月、文化大革命にピリオドが打たれた。廖承志さんはますます忙しくなった。1978年には鄧小平さんに随行して日本を訪れている。このとき、わたしも随行記者として日本を訪れたのだが、おたがいにおたがいなりの忙しさで「廖承志節」を聞く機会は無かった。

 1981年の10月、来年のリスナーへの年頭の挨拶は廖承志さんに日本語でお願いしようということが日本語部の編集会議で決まり、わたしが担当することになった。電話でお願いすると二つ返事でOK。

 年の瀬だが、三寒四温の暖かい日だった。同僚の陳妙玲さん(作家陳舜臣[1][2]さんの妹)、録音技師、わたしの三人で廖承志さんの家に録音に行った。応接間でしばらく陳舜臣さんの近況など雑談したあと、録音に入った。

 「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの」という虚子[3]の名句で始まった廖さんの年頭の挨拶、さすが東京生まれの東京育ち、よどみなく流れるように十四分、録音機を一回も止めることなく語り終わった。正真正銘の東京ことばだった。

 「ありがとうございます」と頭をさげると、廖さんは「うん、ちょっと聞き直してみよう」と言う。テープをもどして聞きなおす。わたしの耳には「百点満点」、ところが廖さんは首を振って言う。「ダメだなあ、やっぱり早口だ。ボクの日本語はどうしても早口になってしまうんだ。これじゃ聞いている人に失礼だよ、やりなおそう」

 こうして二回目の録音、結果は錦上添花(錦に花を添える)、廖さんも「還可以吧!(まあまあだな)」と言った。

 それから一ヶ月ほど、イヌ年の1982年の春節(旧正月)に廖承志さんから自筆の愛犬MOKOのスケッチをいただいた。傍らに「暁星の同窓李順然同志に敬意を――廖承志」(題詞参照)と添えられていた。廖さんとわたしは東京九段の暁星小学で学んだ同窓なのだ。といっても廖さんは二十年上級生、大先輩なのだが……。春節のこの素敵なプレゼントを眺めながら、いつの日かわれわれ共通の大好物マグロの大トロの鮨でもつまみながら小学時代の思い出を語りあえたら、どんなに楽しいことだろうかと夢みるのだった。

 だが、これは叶わぬ夢になってしまった。次の年に廖承志さんの訃報が届いたのだ、残念でならない。

  [1]陈舜臣(1924年——)日本著名华裔作家。主要著作有:《中国历史》(15卷)、《中国五千年》、《儒教三千年》、《小说十八史略》、《秘本三国志》、《鸦片战争》

 [2] 虚子(1874年——1959年),高滨虚子,日本俳句大师

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 あれから五年、1989年の9月、北京放送東京支局で仕事をしていたわたしは、東京の後楽園に近い日中友好会館の美術館前のホールで開かれた廖承志さんの胸像の除幕式の取材をした。席上、中国の楊振亜駐日大使がたいへん心を打つ挨拶をした。その一部を抜き書きして、拙文を終わることにしよう。

 「最も感銘することは、廖承志氏が中日関係が順調なときも、困難なときも、常に大所高所にたち、確信にあふれ両国民の根本的利益をふまえ、着実に障碍を取り除き、両国民の伝統的友誼と両国の長期にわたる友好のために、たゆみない努力を払ってきたことだ。どのような状況のもとでも、中日友好事業に確固不動の信念を持ち続けた――これは廖承志氏が中日両国民に残した貴重な精神的財産だといえよう。こうした精神を受け継ぎ発揚することは、現在の状況のもとでは、いっそう重要な現実的意義をもっている」

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』

東眺西望(三十二) 花を愛する硬骨漢--老舎
東眺西望(三十一) 歴史の語り継ぎ――趙安博
東眺西望(三十)  膝を交えて改革論議――張香山
東眺西望(二十九) 皇族から庶民へ―溥傑
東眺西望(二十八) 「天に順う」に造反した男――康大川
東眺西望(二十七) 積健為雄―趙朴初
東眺西望(二十六) 正直に話そうーー巴金
東眺西望(二十五) 鄧小平訪日随行随想(その二)
東眺西望(二十四) 鄧小平訪日随行随想(その一)
東眺西望(二十三) 八路軍の少年兵と八木寛さん その三
東眺西望(二十二) 八路軍の少年兵と八木寛さん その二
東眺西望(二十一) 八路軍の少年兵と八木寛さん その一

東眺西望(二十) 北京放送局の庭の桜
東眺西望(十九) 「誠心誠意」が生んだ麺食いの本
東眺西望(十八) 中国飲酒マナー俗説と日本
東眺西望(十七) 大晦日の夜のセレモニー
東眺西望(十六) 北京の地下鉄の駅名に思う
東眺西望(十五) 夏衍

東眺西望(十四) 夏の甲子園
東眺西望(十三) 宇都宮徳馬
東眺西望(十二) ある「本」の話
東眺西望(十一) 卵・玉子・たまご・タマゴ
東眺西望(十) 孫平化
東眺西望(九) 「まあ まあ」&「どうも どうも」
東眺西望(八) 北京「鰻丼」食べ歩る記
東眺西望(七) 井上靖
東眺西望(六) 廖承志
東眺西望(五) 杉村春子さんと北京の秋
東眺西望(四) 北京飯店509号
東眺西望(三) 外国語上達法いろは
東眺西望(二) 徳は孤ならず 必ず隣有り
東眺西望(一) 日本人上海市民第一号
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