1976年10月、文化大革命にピリオドが打たれた。廖承志さんはますます忙しくなった。1978年には鄧小平さんに随行して日本を訪れている。このとき、わたしも随行記者として日本を訪れたのだが、おたがいにおたがいなりの忙しさで「廖承志節」を聞く機会は無かった。
1981年の10月、来年のリスナーへの年頭の挨拶は廖承志さんに日本語でお願いしようということが日本語部の編集会議で決まり、わたしが担当することになった。電話でお願いすると二つ返事でOK。
年の瀬だが、三寒四温の暖かい日だった。同僚の陳妙玲さん(作家陳舜臣[1][2]さんの妹)、録音技師、わたしの三人で廖承志さんの家に録音に行った。応接間でしばらく陳舜臣さんの近況など雑談したあと、録音に入った。
「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの」という虚子[3]の名句で始まった廖さんの年頭の挨拶、さすが東京生まれの東京育ち、よどみなく流れるように十四分、録音機を一回も止めることなく語り終わった。正真正銘の東京ことばだった。
「ありがとうございます」と頭をさげると、廖さんは「うん、ちょっと聞き直してみよう」と言う。テープをもどして聞きなおす。わたしの耳には「百点満点」、ところが廖さんは首を振って言う。「ダメだなあ、やっぱり早口だ。ボクの日本語はどうしても早口になってしまうんだ。これじゃ聞いている人に失礼だよ、やりなおそう」
こうして二回目の録音、結果は錦上添花(錦に花を添える)、廖さんも「還可以吧!(まあまあだな)」と言った。
それから一ヶ月ほど、イヌ年の1982年の春節(旧正月)に廖承志さんから自筆の愛犬MOKOのスケッチをいただいた。傍らに「暁星の同窓李順然同志に敬意を――廖承志」(題詞参照)と添えられていた。廖さんとわたしは東京九段の暁星小学で学んだ同窓なのだ。といっても廖さんは二十年上級生、大先輩なのだが……。春節のこの素敵なプレゼントを眺めながら、いつの日かわれわれ共通の大好物マグロの大トロの鮨でもつまみながら小学時代の思い出を語りあえたら、どんなに楽しいことだろうかと夢みるのだった。
だが、これは叶わぬ夢になってしまった。次の年に廖承志さんの訃報が届いたのだ、残念でならない。
[1]陈舜臣(1924年——)日本著名华裔作家。主要著作有:《中国历史》(15卷)、《中国五千年》、《儒教三千年》、《小说十八史略》、《秘本三国志》、《鸦片战争》
[2] 虚子(1874年——1959年),高滨虚子,日本俳句大师
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