八路軍の少年兵
こうして八木一家は八路軍、とりわけ少年兵たちと日一日と親しくなっていく。そんなある日、八木さんは彼等の部隊がこの辺に指揮所を設けたいので、適当な部屋をさがしているという話を少年兵が漏らしたのを耳にする。八木さんの頭には、家には空いている部屋もあるし、家に来てもらったらという考えがひらめいた。敏子さんに相談すると大賛成、こうして八木さんはの家の一部屋に八路軍指揮所が置かれ、夜は少年兵が泊り込むことになる。みな礼儀正しく、少年兵たちは掃除を手伝ってくれたり、物を運んでくれたり、敏子さんは大喜こび。
そんなある日の夕食後のひととき、八木さんは山東省出身の少年兵張君(中文参考"小張")とよもやま話(中文参考"聊天")をしていた。八木さんが「君はいくつ」と聞くと張君は「16歳です」と答える。八木さんは何気なく「そう、16歳のころのわたしは父母とも亡くなって1人で苦労したよ」と言った。
少年兵は下を向いてつぶやくように話し始めた。
「ボクの両親も亡くなりました。殺されたのです。日本軍に殺されたのです。兄も弟も殺され、ボク1人が残されました」
ここで張君は大きく息を吐いて顔をあげ話を続けた。
「ボクは八路軍に入りました。恨みを晴らすためです。八路軍の幹部(中文参考"首長")は、中国を侵略し、中国人を殺したのは日本の軍国主義者だと教えてくれました。日本の民衆もあの戦争で苦しんでいると教えてくれました。今度、東北にやってきて日本人を見て、この道理がいくらかわかって来ました。八木さんも、八木さん一家もみないい人です。ボクたちにいろいろ教えてくれました。八路軍に部屋を貸してくれました。八木さんは友人です。仲間です。同志です……」
張君の話を聞いた八木さんは涙が止まらず、顔をあげることもできなかったそうだ。八木さんの涙は複雑だった。一日本人として、日本の軍国主義者の中国での暴行を厳しく糾弾する被害者自身の生の声を聞いての強い譴責の念からの涙、それと同時にもう1つの涙があったと八木さんはこう語る。
「正直言って、わたしの涙には嬉しい涙もあったんですよ。張君から、友人、仲間といわれ、同志といわれて、しっかり手を握りあった。わたしの心の片隅にずっとあった日本人と中国人という冷たい氷の壁が春の陽を浴びて暖かく溶けていくのを感じて、とてもとても嬉しかったのです」 その夜の八木さんは眠られぬ一夜を送った。張君のことばが繰り返し頭に浮かぶ。握手した張君の大きな暖かい手を感覚が繰り返し蘇る……異国の土地で敗戦を迎えて前途に強い不安を抱く毎日を送っていた八木さんの前に開かれた新しい道――張君たちと、中国の民衆と苦楽を共にしていこうと繰り返し心に誓うのだった。こうして、新しい道を歩む八木寛さんの後半生がこの日から始まるわけである。
|