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八路軍の少年兵と八木寛さん(その1)


天安門城楼の上からの実況放送現場の右から八木寛さん、筆者、方宜さん

 この写真は、1960年5月9日午後、北京の天安門の楼閣の上で撮ったものだ。目の下に拡がる天安門広場では、百万人の北京市民が日本人民の反米愛国闘争を声援する大集会を開いていた。わたしたち(右から八木寛、筆者、方宜)はこの集会の模様を北京放送の日本語放送で実況中継していたのである。

 この写真を見た人が異口同音に発する第一句は「三人ともガリガリに痩せているね」ということばである。しかり!この写真が撮られた1960年は、中国がいわゆる三年の困難な時期のピークにあった年で、上から下まで腹を減らし、一部の農村部では餓死者もでた年だったのだ。そんなわけで、わたしの体重も52キロから47キロに減っていた。日本人の八木さんも同じように腹を減らし、みんなご覧のように頰がこけているのだ(中文参考"両頬消痩")。八木さんのこの頬、ひたすら自分が定めた「中国民衆と苦楽を共にする(中文参考"同甘共苦")」という後半生の道を歩む八木さんの縮図のように感じられるのである。

八路軍の長春入り

 「中国の民衆と苦楽を共にしていく」――八木さんの後半生のこの道は1946年の春から始まる。
1945年8月15日、日本の無条件降伏。日本の国策会社「満州映画協会(満映)」のシナリオライターをしていた八木さんは、中国共産党に接収管理(中文参考"接管")された「旧満映」――東北電影公司に残って長春で暮らしていた。

 その翌年、つまり1946年3月のことだ。国民党軍とたたかう中国共産党指導下の八路軍(東北民主聯軍)が夜おそく長春に入城する。八路軍の兵士たちは静かに八木さんの家の前の道路にうずくまり、夜が明けるのを待った。夜が明けると兵士たちは道の掃除を始める。しばらくすると、十六、七歳の少年兵が八木さんの家の戸をノックする。八木さんの奥さん敏子さんが戸を開けると、少年兵は挙手の礼(中文参考"挙手敬礼")をして「すみませんが、お鍋とかどんぶりとか貸していただけませんか」と言う。敏子さんは反射的に「余分なものはありません」と断る。当時、兵隊にものを貸したら帰ってこないというのは常識だった。

 八路軍についていくらか話を聞いていた八木さんは、昨夜から今朝にかけて八路軍の兵士をその目でみて漠然としたものだが好感を持ち始めていた。そこで、敏子さんに「貸してあげなさいよ」と口をはさむ。敏子さんはしぶしぶお鍋やどんぶりを出してくる。少年兵は「ありがとう」とニッコリ笑って挙手の礼をし、「あ、お宅は家族何人ですか」と聞く。敏子さんは、おかしなことを聞くなと思いながらも、ぶっきらぼうに(中文参考"愛理不理地")「五人」と答えた。

 一時間ほどだっただろうか、先ほどの少年兵がもう一人の少年兵を連れてやってきた。ニコニコして挙手の礼をし鍋やどんぶりを置いたあと、少年兵は「ありがとうございます」というと「まわれ右」(中文参考"向後転")小走りで立ち去っていった。
どんぶりはきれいに洗ってある。お鍋のふたをあけて、敏子さんは「アツ」と驚く。山盛りのごはんとおかず、ぷうんと美味しそうな香り。「パパ、パパ、たいへん」敏子さんは大声で八木さんを呼ぶ。八木さんはお鍋のなかをのぞき込んでつぶやく。

 「ひょっとすると、お鍋を貸りるというのは口実で、軒下を貸りて過した一夜の宿のお礼だったのかもしれない。さすが八路軍だな」
八木さんは、八路軍は民衆の米一粒、針一本にも手を触れないということを聞いていたが、それを目の当りにして、たいへん感激する。

八路軍の少年兵

 こうして八木一家は八路軍、とりわけ少年兵たちと日一日と親しくなっていく。そんなある日、八木さんは彼等の部隊がこの辺に指揮所を設けたいので、適当な部屋をさがしているという話を少年兵が漏らしたのを耳にする。八木さんの頭には、家には空いている部屋もあるし、家に来てもらったらという考えがひらめいた。敏子さんに相談すると大賛成、こうして八木さんはの家の一部屋に八路軍指揮所が置かれ、夜は少年兵が泊り込むことになる。みな礼儀正しく、少年兵たちは掃除を手伝ってくれたり、物を運んでくれたり、敏子さんは大喜こび。

 そんなある日の夕食後のひととき、八木さんは山東省出身の少年兵張君(中文参考"小張")とよもやま話(中文参考"聊天")をしていた。八木さんが「君はいくつ」と聞くと張君は「16歳です」と答える。八木さんは何気なく「そう、16歳のころのわたしは父母とも亡くなって1人で苦労したよ」と言った。

 少年兵は下を向いてつぶやくように話し始めた。

 「ボクの両親も亡くなりました。殺されたのです。日本軍に殺されたのです。兄も弟も殺され、ボク1人が残されました」

 ここで張君は大きく息を吐いて顔をあげ話を続けた。

 「ボクは八路軍に入りました。恨みを晴らすためです。八路軍の幹部(中文参考"首長")は、中国を侵略し、中国人を殺したのは日本の軍国主義者だと教えてくれました。日本の民衆もあの戦争で苦しんでいると教えてくれました。今度、東北にやってきて日本人を見て、この道理がいくらかわかって来ました。八木さんも、八木さん一家もみないい人です。ボクたちにいろいろ教えてくれました。八路軍に部屋を貸してくれました。八木さんは友人です。仲間です。同志です……」

 張君の話を聞いた八木さんは涙が止まらず、顔をあげることもできなかったそうだ。八木さんの涙は複雑だった。一日本人として、日本の軍国主義者の中国での暴行を厳しく糾弾する被害者自身の生の声を聞いての強い譴責の念からの涙、それと同時にもう1つの涙があったと八木さんはこう語る。

 「正直言って、わたしの涙には嬉しい涙もあったんですよ。張君から、友人、仲間といわれ、同志といわれて、しっかり手を握りあった。わたしの心の片隅にずっとあった日本人と中国人という冷たい氷の壁が春の陽を浴びて暖かく溶けていくのを感じて、とてもとても嬉しかったのです」
その夜の八木さんは眠られぬ一夜を送った。張君のことばが繰り返し頭に浮かぶ。握手した張君の大きな暖かい手を感覚が繰り返し蘇る……異国の土地で敗戦を迎えて前途に強い不安を抱く毎日を送っていた八木さんの前に開かれた新しい道――張君たちと、中国の民衆と苦楽を共にしていこうと繰り返し心に誓うのだった。こうして、新しい道を歩む八木寛さんの後半生がこの日から始まるわけである。

八路軍とともに長春撤退

 次の月、つまり1946年4月のことだ。東北電影公司の指導部は、当時の戦局を踏まえて長春から器材をたずさえて撤退することを決め、日本人にも同行しいろいろ手伝ってもらいたいと通知した。八木さんは一家で同行することを決めた。中国の民衆と苦楽を共にするという誓いを実行に移したわけだ。

 貸物列車での移動で、長春を出発したのが5月13日、最終目的地である鶴崗に着いたのが6月1日だった。鶴崗は旧ソ連との国境にも近い石炭の街である。到着後、中国人スタッフを手伝って、ここの小学校跡を整理し、長春から運んできた器材の据え付けを始めた。この仕事もだいたい終わった八月には、日本に帰国できるという情報が入り、百人近い日本人が鶴崗を離れる。八木さんは中国側の要望に従って残留する。残留組には戦前、戦後の日本の映画界にその名を轟かせた名監督内田吐夢さんや日本のアニメの父といわれる持永只仁さんの名も入っていた。

 この年の10月1日には、東北電影公司は東北電影製片厰と名を変えてニュース映画などの製作を始める。残留組の日本人カメラマンも中国人カメラマンと一緒に国民党軍との戦闘の第一線に赴き戦闘の模様をカメラに収め、全国に伝えたそうだ。のちの長春電影製片厰の前身ともいえる。このあと八木さんは辞令(調令)を受け1948年には沈陽の新華放送局で日本語放送の仕事をした。その間、八木さんは東北にいる日本人の学習のため、毛沢東の『延安文芸座談会における講話』(中文『在延安文芸座談会上的講話』)を日本語に翻訳し、瀋陽で発行されている日本語の新聞『民主新聞』の紙上に発表した。こうして、八木さんは毛沢東の著作を最初に翻訳・出版した日本人といわれるようになった。そして、1949年10月には新中国誕生の熱気に溢れる北京にやってきて北京放送局日本語組勤務となる。日本語部が迎えた最初の日本人局員である。当時は、専門家という概念はなかった。それから1970年に日本に帰国するまでの20余年、北京放送局日本語部で中国の民衆と甘苦をともにする毎日をおくる。(つづく)

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』

東眺西望(二十)
東眺西望(十九)
東眺西望(十八)
東眺西望(十七)
東眺西望(十六)
東眺西望(十五)

東眺西望(十四)
東眺西望(十三)
東眺西望(十二)
東眺西望(十一)
東眺西望(十)
東眺西望(九)
東眺西望(八)
東眺西望(七)
東眺西望(六)
東眺西望(五)
東眺西望(四)
東眺西望(三)
東眺西望(二)
東眺西望(一)

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