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「文化大革命」では、「ことば」の、「もじ」の、「うでずく」の……もろもろの暴力が、人に嘘をつかせ、嘘が嘘を生み、嘘が嘘を呼び、嘘の輪が津波のように、あれよあれよといううちに960万平方キロの大地を覆ってしまった。人間の弱さを感じ悲しかった。この嘘という妖怪の手で、あまたの人が痛めつけられ、傷つけられ、はては命を奪われていた。嘘をつかないが故に、ただただそれ故に人一倍痛めつけられ、傷つけられ、はては命を失った人もいた。人間の強さを感じ頭がさがった。
「文化大革命」の悲劇が再び繰り替えされないようにする「万里の長城」は、わたしたち一人一人がいつ、いかなる場合にも、一言一句たりとも嘘をつかず、よく考え、正直に話し、真実を語るよう心がけることかも知れない。わたしも、残された人生の日々を,そうした仲間の一人になれるよう努力していきたい。「正直に話そう」を座右の銘にして生きていきたい。
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巴金さんは、日本の文化人とも正直(講真話)に話しあい、誠実に心を交しあってきた。中島健蔵さん、井上靖さん、水上勉さん、杉村春子さん……は、そう語り、そう記している。
巴金さんも、その絶筆ともいえる『随想録』の数ヶ所で、こうした日本の友との心の交流について触れている。「訪日帰来」では、その後半生、専門のフランス文学を捨て、無私・無欲、誠実・勇気の精神で日中間の文化人の心の交流に全身全霊を傾け、日中文化交流協会理事長、会長を23年務めあげた日本の優れた評論家中島健蔵さんの墓参りをし、墓前で無言の心の交流をしたときのことを次のように書いている。
「墓地は静まりかえっていた。わたしは眼を大きく見開き、中島さんの墓碑と向きあった。静けさの中から、中島さんの『さあ、われわれの友情のために乾杯!』という何回も聞いた懐かしい声が聞こえてくる。わたしの眼は潤んだ。来るのが遅すぎた、お酒を持ってこなくて残念だ……と思った。しばし墓前に佇ずみ無言の交流を続けた。そして、もう一度深く頭をさげた。酒を持って来なくてもかまわない、わたしは心のすべてをさらけだして、中島さんのお墓に掛けているのだから……と思った。」
「わたしの耳には、また中島さんの声が聞こえてきた。友人が中島さんからの伝言として聞かしてくれたことばだ。『日本の中島健蔵は、一刻たりとも君たちのことを忘れたことはない』。なにか、中島健蔵さんが傍らに立っているように感じてならなかった」
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