大江さんはさらに次のように話している。
「魯迅は、二十世紀のアジア、つまりこの百年のアジアで最も偉大な作家だと思う」
この原稿の筆をすすめるわたしの脳裏には、半世紀も前の一九六〇年に中国を訪れた若き日の大江健三郎さんの姿が何回も浮かんだ。大江さんは、一九六〇年に日本作家代表団のメンバーとして中国を訪問したのだが、わたしは北京放送のかけだし記者として、北京でのこの代表団の活動を取材した。団長で作家の野間宏さんや副団長で評論家の亀井勝一郎さんとは、かなりの年齢差の大江さんは、爽やかで若々しい好青年といった感じだった。その実、当時の大江さんはすでに芥川賞受賞の堂々たる新進作家だったのである。
代表団の一行は、上海で毛沢東さんや周恩来さんと会い、北京では抗日戦争時代は新四軍(中国共産党の指導する軍隊)の軍長として日本軍と戦い、新中国誕生後は副総理兼外相として活躍した陳毅さんと会っている。
陳毅さんとの話しあいで、野間宏さんや亀井勝一郎さんが「われわれ日本人には、過去の中国侵略戦争にたいする責任があります。われわれはこのことを忘れてはなりません。水に流すわけにはいかないのです」といった。
これにたいして陳毅さんは「たいへん素晴らしいお言葉をいただき、ありがとうございます。わたしたちが過去のことを過ぎさった事ですと言い、あなたがた日本人が過去のことは忘れませんと言う。こうすれば真の中日友好ができます。もしわれわれがいつまでも恨み、あなたがた日本人が中国を傷つけたことをすっかり忘れ去ってしまうのでは、中日両国には永遠に友好はありえないでしょう」と答えている。半世紀も前のことだが、中日関係の核心を一言で言い尽くしたような名言だと、わたしはいまでも思っている。
一九六〇年、日本では安保反対の闘争が激しく進められていた当時、二十五歳の大江健三郎さんの一月あまりにわたる中国の旅、そこで巡り会った毛沢東、周恩来、陳毅といった中国の要人、こうしたすべては、そのごの大江さんの創作、生活態度に、なんらかの影響があったのか、中国の一読者として、またあの旅の北京でのスケジュールをかけだし記者で随行取材していた一人として、とても興味を持っている。
たいへん懐かしい話だが、あのころ、大江さんも、わたしも、海を隔てていたとはいえ、国籍は違うとはいえ、日米安保条約に反対する心と心の結びあう若い仲間だったのである。
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