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大江健三郎と拼命三郎

 日本で暮らしていた子供のころ、わたしは兄たちから「ボヤ公」と呼ばれていた。順然という名にまったく結びつかないので、どうしてこう呼ばれていたのか、兄たちに聞いてもわからない。いまに至るも謎である。「坊や」が縮まって「ボや公」になったのか、いつも「ボヤ」っとしていたから「ボヤ公」になったのか……。

 子供のころの愛称といえば、作家の大江健三郎さんにも、こんな話がある。この話のニュースソースは、二〇〇〇年秋の大江さんの北京の旅を案内した中国社会科学院外国文学研究所の許金竜教授が雑誌『人民中国』に寄せたレポートだが、大江さんは子供のころ母親から「サンラン」と呼ばれていたそうだ。なぜ「サンラン」と呼ばれていたのか、母上なきあと聞く人もなく、これは大江さんの謎となって半世紀、正確には六十五年に及んだという。

 この謎が解けたのは、許金竜教授が案内した二〇〇〇年秋の北京の旅だった。大江さんはそれまでも中国を訪れてはいたが、今度はノーベル賞作家としての訪問、講演会、座談会、サイン会とスケジュールがぎっしり詰まっていた。その間を縫って帰国する前夜、大江さんはかねがね見たいと思っていた京劇の観劇にでかけた。

 演目は『水滸伝』に題材をとった「三たび祝家荘を打つ」、ここで活躍するのは「拼命三郎(ピンミンサンラン)」、つまり「命知らずの三郎」だ。「三郎」の中国語音は「サンラン」、舞台からは「サンラン」「サンラン」という中国語のせりふが繰り返し流れてくる。ふと、大江さんの耳に、この「サンラン」が六十余年も昔、母上が自分を呼んでいた「サンラン」と重なり、ハッとする。急いで舞台の脇の字幕スクリーンに映しだされるせりふをみると、「三郎」とはっきり漢字が記されているではないか。健三郎の「三郎」と同じ「三郎」である。ああ、そうだったのか――こうして、大江さんの六十五年にわたる謎は、一挙に解けたというのだ。

 大江さんの母上は、若き日に中国を訪れたこともあり、魯迅や郁達夫といった中国の作家の作品も愛読し、いくらか中国語もできたようだ。そこで、息子の健三郎さんへの愛情を「三郎(サンラン)」という中国語に託したのだろう。「健三郎」の「三郎」を「サンラン」と中国語読みし、「健」+「サンラン」、「健康な三郎(サンラン)」を願ったのだろう。

 「サンラン」――なんと響きのよい愛称だろう。大江さんに寄せる母上の愛情が一音一音に滲んでいる。母上は、きっとあの世で大江さんの六十五年ぶりの北京での「開眼」を、さぞかし喜んでおられることだろう。

大江健三郎さんの母上は、現代中国風にいえば、「偉大な母親」という称号にふさわしい素晴らしい女性だった。大江さんは母上の思い出を次のように語っている。

 「わたしが森のなかの村から都会の学校に進学するため家を離れるその日に、母は『魯迅短篇小説集』をなにも言わずに贈ってくれた。そして、一学期の授業が終わって家に帰ると『故郷』(筆者註:魯迅の短篇小説の代表作)読んだ?」とわたしに尋ねるのだった――こうして、わたしは文学と巡り会ったのだ。社会のなかで生存していく基本的な態度を学んだのである」。まさに、この母なくしてノーベル賞受賞作家大江健三郎なしである。

 大江さんはさらに次のように話している。

 「魯迅は、二十世紀のアジア、つまりこの百年のアジアで最も偉大な作家だと思う」

 この原稿の筆をすすめるわたしの脳裏には、半世紀も前の一九六〇年に中国を訪れた若き日の大江健三郎さんの姿が何回も浮かんだ。大江さんは、一九六〇年に日本作家代表団のメンバーとして中国を訪問したのだが、わたしは北京放送のかけだし記者として、北京でのこの代表団の活動を取材した。団長で作家の野間宏さんや副団長で評論家の亀井勝一郎さんとは、かなりの年齢差の大江さんは、爽やかで若々しい好青年といった感じだった。その実、当時の大江さんはすでに芥川賞受賞の堂々たる新進作家だったのである。

 代表団の一行は、上海で毛沢東さんや周恩来さんと会い、北京では抗日戦争時代は新四軍(中国共産党の指導する軍隊)の軍長として日本軍と戦い、新中国誕生後は副総理兼外相として活躍した陳毅さんと会っている。

 陳毅さんとの話しあいで、野間宏さんや亀井勝一郎さんが「われわれ日本人には、過去の中国侵略戦争にたいする責任があります。われわれはこのことを忘れてはなりません。水に流すわけにはいかないのです」といった。

 これにたいして陳毅さんは「たいへん素晴らしいお言葉をいただき、ありがとうございます。わたしたちが過去のことを過ぎさった事ですと言い、あなたがた日本人が過去のことは忘れませんと言う。こうすれば真の中日友好ができます。もしわれわれがいつまでも恨み、あなたがた日本人が中国を傷つけたことをすっかり忘れ去ってしまうのでは、中日両国には永遠に友好はありえないでしょう」と答えている。半世紀も前のことだが、中日関係の核心を一言で言い尽くしたような名言だと、わたしはいまでも思っている。

 一九六〇年、日本では安保反対の闘争が激しく進められていた当時、二十五歳の大江健三郎さんの一月あまりにわたる中国の旅、そこで巡り会った毛沢東、周恩来、陳毅といった中国の要人、こうしたすべては、そのごの大江さんの創作、生活態度に、なんらかの影響があったのか、中国の一読者として、またあの旅の北京でのスケジュールをかけだし記者で随行取材していた一人として、とても興味を持っている。

 たいへん懐かしい話だが、あのころ、大江さんも、わたしも、海を隔てていたとはいえ、国籍は違うとはいえ、日米安保条約に反対する心と心の結びあう若い仲間だったのである。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』

東眺西望(三十七)ー小澤征爾の魅力
東眺西望(三十六)「まあ まあ」&「どうも どうも」
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東眺西望(三十二) 花を愛する硬骨漢--老舎
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