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(十)孫平化

―ちょっと話したい話―

わたしのサインブックから③

 去年(2010年)の春のことだ。中日友好協会前会長の孫平化さん(1917年~1997年)の1984年から亡くなられた1997年までの十数年の日記を、お嬢さんの孫暁燕さんが整理し、題して『中日友好隨想録』という本に収め、孫平化さんの故郷である中国東北地方遼寧省の遼寧人民出版社から出版した。

 450ページにおよぶ大作だが、孫さんとも親しかった丁民さん(元中国駐日公使、現中日関係史学会名誉会長)は、その読後感で「この日記には、1ページごとに平均3~4名の日本の友人の名前がでてくる。われわれのよく存じあげているなじみ深い友人の名前もあれば、全然知らない人の名前も出てくる」と書いている。

 3~4名×450ページ――このたいへんな数字は人と人との情をなによりも大切にしていた孫さんの日記ならではのものだろう。

 孫さんの情といえばこんなことがあった。

孫平化さんからいただいた題字

――廖承志さんと孫平化さん――

 中日友好協会の初代の会長廖承志さんが亡くなったのは、一九八三年六月十日だったが、それから半月ほどしたある日、北京放送では孫さんをスタジオにお招きして、廖承志さんを偲ぶお話をお願いした。日本向け番組なので、もちろん日本語で録音する。東京工業大学で学んだ孫さん、日本語は問題ない。「十五分の番組なので、前後の紹介アナウンスを差し引いて正味十三分ぐらいで」と、あらかじめ電話でお願いしておいた。

 スタジオに入った孫さんは、原稿も持たずにマイクに向かう。まるで廖さんが目の前にいるかのように、しっかりと前を見すえ、ゆっくりと話を始めた。

 「廖承志先生、あなたの肝いりで、北京の友好賓館の中につくられる日本料理店、『白雲』が、もうすぐ開店し、あなたの大好物のマグロの刺身を食べていただけるのを、とても楽しみにしていたのに、それを持たずに亡くなられてしまった。まったく悲しいです。残念です」

 こんな言葉で始まった孫さんの話は、多くの日本の友人の名を挙げながら、予定の十三分をはるかにオーバーして、なんと一時間あまり。一九五二年に廖さんのもとで仕事をするようになってからの三十余年、廖さんをめぐる思い出の一コマ一コマを、孫さんは「悲しいです」「残念です」を連発しながら、ときどき目を閉じ、噛みしめるように話した。

 録音を終えてスタジオから出てきた孫さんは、わたしに「やあ、だいぶ時間をオーバーしてしまった。でも、心にあることを、みんな話させてもらった。すっきりしたよ。ありがとう。後はそちらで適度に削ってください」と言い残し、「ご苦労さま」と、スタッフ一人一人と握手をして部屋を出て行った。

廖承志さんと孫平化さん(廖承志文集下)

――中日関係には情が欠かせない――

 孫さんの話は情にあふれるものだった。廖さんに寄せる「情」、中国と日本の民衆に寄せる「情」、中日友好という仕事に寄せる「情」……にあふれていたが、「情」と言えば孫さんは、その遺言とも言える『私の履歴書』(日本経済新聞社)で、次のように書いている。

 「私がいつも思うのは、中日友好でも、日中友好でも、一番重要なことは、人間と人間の関係だということだ。おたがいに心と心で付き合う友情が大事だと考えている。その意味では、最近の中日関係には『情』がない」

 中国と日本は隣同士である。百年後も、三百年後も、五百年後も……。隣同士にとって、「情」はことのほか貴重だ。あれやこれやのいざこざが起きるのは、古今東西、隣同士の常である。「情」は、それを解決する最良の潤滑油であることも、歴史は教えている。

 わたしには、孫さんの「情」がないという言葉の裏に、「情」があって欲しいという孫さんの強い本音を感じるのである。

田中角栄首相(当時)と握手する孫平化さん。東京帝国ホテル、1972年8月15日(『人民中国』2002年9月P29)


 ――二つの8月15日――

 孫平化さんは重い病の床で、自分が歩んだ中日友好の道を綴った『私の履歴書』を一字一字、不撓不屈の精神力で書きあげる。そして、一九九七年八月十五日に、北京病院で静かに息を引き取った。享年七十九歳だった。

 奇しくも、二十五年前のこの日(一九七二年八月十五日)、孫平化さんは同僚の肖向前さんとともに東京の帝国ホテルで、一月ほど前に就任した田中角栄首相と会見し、中日国交正常化に繋がる「田中訪中」の道筋をつける大業を成し遂げている。ホテルニューオタニ、ホテルオークラ、料亭福田屋……と場所を変えての連日連夜の緊張した根回しのあとでのこの会見、田中首相と握手を交わす孫さんの会心の笑顔が忘れられない。この数字の偶然は、孫さんを知る人たちの悲しみをいっそう強いものにした。

 孫平化さんの遺骨は孫さんの遺言にしたがって、北京郊外の中日友好人民公社の入口のあった近くの松の木の下に埋められた。この松の木は、中日平和友好条約の締結を記念して、孫さんが廖承志さんと一緒にスコップを手にして植えたものだそうだ。

 北京には、八宝山墓地、万安墓地と名の知られた墓地が多いが、この松の木の下こそ、中国を愛し、日本を愛し、廖承志さんを愛し、中日友好に全身全霊を傾けた情の人孫平化さんには、もっともふさわしい永遠の安息の地といえよう。

 追記:

 サインブックに大先輩孫平化さんは「順然騰飛」と書いて励ましてくださいましたが、この半世紀、わたしはまったく「騰飛」するきざしもなく、中日友好の架け橋である北京放送日本語部で、この橋の一本の細い細い橋ぐいとして、わき目もふらず、一日一日を「一所懸命」に生きてきました。五十年一日のごとく……。ひたすら、この橋を渡ってくれる人が一人でも多くなるよう願って……。

 こんなわたしを孫平化さんは、きっとあの世で目を細めて「順然、それも騰飛さ」と慰めてくれていることでしょう。わたしもそう思っています。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』
  • 東眺西望(九)
  • 東眺西望(八)
  • 東眺西望(七)
  • 東眺西望(六)
  • 東眺西望(五)
  • 東眺西望(四)
  • 東眺西望(三)
  • 東眺西望(二)
  • 東眺西望(一)
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