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田中角栄首相(当時)と握手する孫平化さん。東京帝国ホテル、1972年8月15日(『人民中国』2002年9月P29) | ――二つの8月15日――
孫平化さんは重い病の床で、自分が歩んだ中日友好の道を綴った『私の履歴書』を一字一字、不撓不屈の精神力で書きあげる。そして、一九九七年八月十五日に、北京病院で静かに息を引き取った。享年七十九歳だった。
奇しくも、二十五年前のこの日(一九七二年八月十五日)、孫平化さんは同僚の肖向前さんとともに東京の帝国ホテルで、一月ほど前に就任した田中角栄首相と会見し、中日国交正常化に繋がる「田中訪中」の道筋をつける大業を成し遂げている。ホテルニューオタニ、ホテルオークラ、料亭福田屋……と場所を変えての連日連夜の緊張した根回しのあとでのこの会見、田中首相と握手を交わす孫さんの会心の笑顔が忘れられない。この数字の偶然は、孫さんを知る人たちの悲しみをいっそう強いものにした。
孫平化さんの遺骨は孫さんの遺言にしたがって、北京郊外の中日友好人民公社の入口のあった近くの松の木の下に埋められた。この松の木は、中日平和友好条約の締結を記念して、孫さんが廖承志さんと一緒にスコップを手にして植えたものだそうだ。
北京には、八宝山墓地、万安墓地と名の知られた墓地が多いが、この松の木の下こそ、中国を愛し、日本を愛し、廖承志さんを愛し、中日友好に全身全霊を傾けた情の人孫平化さんには、もっともふさわしい永遠の安息の地といえよう。
追記:
サインブックに大先輩孫平化さんは「順然騰飛」と書いて励ましてくださいましたが、この半世紀、わたしはまったく「騰飛」するきざしもなく、中日友好の架け橋である北京放送日本語部で、この橋の一本の細い細い橋ぐいとして、わき目もふらず、一日一日を「一所懸命」に生きてきました。五十年一日のごとく……。ひたすら、この橋を渡ってくれる人が一人でも多くなるよう願って……。
こんなわたしを孫平化さんは、きっとあの世で目を細めて「順然、それも騰飛さ」と慰めてくれていることでしょう。わたしもそう思っています。
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