-先輩たちのアドバイス-
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「江戸っ子」中国人の廖承志さん |
一生北京を描き続けた 大作家 老舎さん |
「三大」-あまりにも乱暴かつ独断なので、ちょっと著名人のエピソードや談話に援軍を求めることにしよう。
まず登場していただくのは東京生まれ、東京育ち、「江戸っ子」中国人の廖承志さん、中国共産党中央政治局員といういかめしい肩書きを持っていたが、いたってソフトな人柄、中日友好協会の会長や北京放送の局長をしていたこともある。もちろん、「べらんめえ調」の日本語を話す。廖さんが北京放送の局長をしていたころ、こんなことを言った。
「北京放送の日本語部のオフィスに入ったら、中国語はカバンのなかに仕舞っちゃって日本語を使えよ。日本語部のオフィスでは、日本語が公用語、大胆に大きな声で話すんだ。恥ずかしがらずに……大きな声で話せば、アクセントとか、発音とか、まわりの人にチェックしてもらえるぜ」
こうして日本語部のオフィスでは、日本語を使うことが不文律の定めとなってきた。のちに、中国の駐日公使、外交部長(外相)、国務委員(副首相級の閣僚)となった唐家璇(とうかせん)さんも、この日本語部のオフィスで日本語を磨いた一人である。
次は、一生北京を描き続けた中国の大作家老舎さん。老舎さんはロンドンで五年、ニューヨークで四年暮らしているが講演やレクチャーは、直接英語を使っていた。
この英語力はどこから生まれたのだろうか。ご令息の舒乙さんが書いたエッセイ「老舎の趣味」のひとくだりをみればわかる。こう書いている。
「老舎は仕事の合間によく英語の本を大声で朗読していた。一気に30分も続ける。変わった趣味である……外国語朗読の習慣は、なんと一生続いたのだ」
次も大声論者で、中国のラストエンペラー、かいらい満州国の皇帝・溥儀の弟の溥傑さん。溥傑さんは日本の陸軍士官学校に留学していた。
「士官学校では、しぼられましたね。いちばん苦手だったのは上官にたいする報告、声が小さいと何回でもやりなおし、でも大声の報告、日本語の勉強には役立ちましたよ。日本語を話す度胸がつきましたね」
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