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 わたしのサインブックには、趙安博さんのサインはない。上の数文字は趙さんがわたしにくれた本のとびらのページに書いてくださったものだ。

 趙さんの家は敷居が低いとでもいうのか、奥様も気さくな方でよくおしゃべりに行った。帰りぎわに趙さんはいつもおみやげといって本を下さった。いまでも『魯迅詩解』『中日文化交流史論』『従帝国軍人到反戦勇士』など十数冊がわたしの勉強部屋の本棚に並べられている。そして、そのどの本にも「李順然同志存 趙安博」と記されているのだ。さながら、わが家のなかの趙安博文庫である。

 こうした本を目にするたびに、趙さんの優しい声が聞こえてきて、わたしを励ます。

 「小李、本をうんと読めよ。頭のなかの知識っていう奴は他人が盗もうとして盗めない貴重な財産だよ」

 趙安博さんはたいへんな読書家だった。趙さんの読書の習慣は東京の第一高等学校(現在の東京大学教養学部――俗称「一高」)時代に身に付けたものだそうだ。趙さんは「一高の学生は『よく学びよく遊ぶ』だったよ」と言っていたが、ご自身は一高でバスケットボール部に席を置いていたという。

歴史の語り継ぎ――趙安博

 現代中日交流史の生き字引のような人がいた。中日友好協会の初代秘書長だった趙安博さん(1915~1999年)である。

 趙さんは、1934年に日本に留学し、第一高等学校(現在の東大教養学部)で学んだ。1937年に中日全面戦争が始まるとすぐに帰国し、中国共産党指導下の八路軍の一二〇師団三五九旅団の対日本軍工作科の科長となる。

 この三五九旅団が、日本の兵士も民衆だとして、日本の捕虜に馬と食糧を渡し、道案内までつけて釈放した話がある。趙さんはこれにも一役かったそうだ。ちなみに、この旅団の旅団長は、のちに中日友好協会の名誉会長となった王震将軍だった。

 その後、趙さんは、中国革命の聖地である延安に移り、ここで日本労農学校の副校長となる。武器を捨てた日本の兵士に社会発展史などを教えたのだが、この学校の校長は、日本共産党元議長の野坂参三さんだった。

 日本が降伏すると、趙さんは百万人の日本人居留民がいたという中国東北地方に飛び、ここの人民政府の日本人居留民管理委員会の副主任として活躍する。きびしい環境のなかで、日本人居留民の衣食住から就職、帰国などの世話に汗を流した。

 東方地方の仕事が一段落したあと、趙さんは北京に来て、毛沢東さんが日本人と会うときの通訳をしたり、中日友好協会の初代秘書長を務めたり、文字通りその一生を中日友好の事業にささげた。

 わたしが趙さんと親しくなったのは、1970年代に毛沢東さんの著作などを日本語に翻訳する仕事を手伝っていたときからだ。趙さんは、このグループの顧問だった。趙さんもわたしも昼寝が苦手で、長い昼休みをもてあましていた。そこで、昼休みによくお互いの部屋を訪れておしゃべりをしたものだ。

 その席で、わたしが「趙さん、中国共産党の指導者がよく『日本軍国主義と日本国民とを区別しなければならない。日本国民はわれわれの友だ』と言っていますが、いつごろからこうした言い方をするようになったのですか」とたずねたことがあった。

 趙さんは「李君、あれは『言い方』じゃない。思想だよ」と前置きにして、次のような話をした。

 「中日全面戦争が始まった1937年のことだ。イギリスの記者、バートラムが延安を訪れ、毛沢東さんにインタビューしたんだ。そのとき、毛さんは『日本の軍国主義者と日本の一般の民衆を区別すべきだ。中国の民衆と日本の民衆の利益は一致している。だから、われわれは日本の捕虜を寛大に取り扱い、釈放しているのだ』と語っているんだよ。毛さんのこの話は、『イギリスの記者、バートラムとの談話』というタイトルで『毛沢東選集』第二巻に収められている。毛さんの話は決して、便宜的なものではなく、一つの思想だと思うね。われわれは、あの戦争のときも、戦争が終わってからも、この思想に照らして日本との関係を処理してきたんだ。これからも、きっとそうしていくだろう」

 いまのわたしは、この話をしてくれたときの趙さんよりも年寄りになっている。趙さんの語った「この思想」を、若い世代にぜひ語り伝えていきたいと思う。趙さんがわたしに話してくれたように……

 追記:趙安博さんのお宅には、よくおうかがいした。趙さんご夫婦のお話しを聞くのが楽しみで……。

 趙さんが東京の一高を中退して帰国し、抗日戦争の根拠地延安に向かった丁度そのころ、趙さんの奥様蘇蘭さんは、住み馴れたタイのバンコクを離れ国境を越えて帰国し、やはり延安に向かった愛国の情に燃える少女だった。なにしろ、バンコクから延安まで、ヒッチハイクを利用したりして徒歩でやってきたというのだから、その愛国の情の深さがうかがえる。

 二人は延安で結婚した。そして、中日戦争が終わった1945年の秋、のちに中国共産党の総書記を務めた胡耀邦さんに随って、日本人居留民百万人がいたという中国東北地方にやってきた。本文でも書いたように、趙さんはここで東北人民政府日本人管理委員会の副主任となったのだが、蘇蘭女士曰く。

 「あのころの趙さんは仕事の虫、朝早くから夜晩くまで仕事、仕事、仕事、日曜も休日もありませんでした。日本人の衣、食、住、就職、結婚、病人見舞い……。誰も誉めてやってくれないので、わたしが『あなたは日本人奉仕の"模範"ですよ』と誉めてあげました。ハハハ……」

 趙さんは答えて曰く。

 「いや、いや、日本人とは助けたり、助けられたり。いろいろ教えてもらいましたよ。東京の一高は中退でしたが、あの数年、一高を二回も三回も卒業するほど勉強させてもらいました。」

 「戦後、何回か日本に行きましたが、行く先々で延安の日本工農学校の仲間や東北地方で知りあいになった人たちが『趙安博先生歓迎』と書かれたのぼりを持って迎えてくれました。嬉しかったですね。肩を抱きあって涙を流しました」

 蘇蘭さんは、ニコニコしながら趙さんの話にうなずいていた。

 その実、蘇蘭さんも趙さんと一緒に中国の東北地方で日本人に「奉仕」していたのだ。チチハルの郊外だったか、チャムスの郊外だったか忘れたが、そこで日本人と一緒に日本人向けの野菜づくりで、忙しい毎日を送っていたという。

 趙安博さんの一生を振り返ってみると、八路軍一二〇師団三五九旅団で対日本軍工作科科長をしていたころには、日本軍の捕虜に食糧と馬、それに道案内の農民までつけて釈放したり、延安の日本工農学校の副校長をしていたころには、日本人は風呂好きだといって日本人専用の風呂場を作ったり、東北人民政府日本人管理委員会の副主任をしていたころには、前述した通り日本人に「奉仕」する「模範」だったり、北京で中共中央対外連絡部副秘書長、中日友好協会初代秘書長をしていたころには、北京に住む日本人、北京を訪れた日本人のよき相談相手として「アンパクさん」「アンパク先生」と親しまれ、慕われたり……。

 趙安博さんの一生を思うと、本文で記した毛沢東さん提唱の「この思想(中国の民衆と日本の民衆の利益は一致している)」が、秋の青空に尾を引く純白の飛行機雲のように、くっきりと、鮮やかに浮かびあがってくるのだ。

 「ボクはアンパク先生ではありません。ワンパク小僧です」と語る趙さんの笑顔が懐かしく思いだされる。趙安博さんは心の優しい、ユーモア感に溢れる中国の大人(だいじん)だった。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』

東眺西望(三十)膝を交えて改革論議――張香山
東眺西望(二十九)皇族から庶民へ―溥傑
東眺西望(二十八) 「天に順う」に造反した男――康大川
東眺西望(二十七) 積健為雄―趙朴初
東眺西望(二十六) 正直に話そうーー巴金
東眺西望(二十五) 鄧小平訪日随行随想(その二)
東眺西望(二十四) 鄧小平訪日随行随想(その一)
東眺西望(二十三) 八路軍の少年兵と八木寛さん その三
東眺西望(二十二) 八路軍の少年兵と八木寛さん その二
東眺西望(二十一) 八路軍の少年兵と八木寛さん その一

東眺西望(二十) 北京放送局の庭の桜
東眺西望(十九) 「誠心誠意」が生んだ麺食いの本
東眺西望(十八) 中国飲酒マナー俗説と日本
東眺西望(十七) 大晦日の夜のセレモニー
東眺西望(十六) 北京の地下鉄の駅名に思う
東眺西望(十五) 夏衍

東眺西望(十四) 夏の甲子園
東眺西望(十三) 宇都宮徳馬
東眺西望(十二) ある「本」の話
東眺西望(十一) 卵・玉子・たまご・タマゴ
東眺西望(十) 孫平化
東眺西望(九) 「まあ まあ」&「どうも どうも」
東眺西望(八) 北京「鰻丼」食べ歩る記
東眺西望(七) 井上靖
東眺西望(六) 廖承志
東眺西望(五) 杉村春子さんと北京の秋
東眺西望(四) 北京飯店509号
東眺西望(三) 外国語上達法いろは
東眺西望(二) 徳は孤ならず 必ず隣有り
東眺西望(一) 日本人上海市民第一号
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