追記:趙安博さんのお宅には、よくおうかがいした。趙さんご夫婦のお話しを聞くのが楽しみで……。
趙さんが東京の一高を中退して帰国し、抗日戦争の根拠地延安に向かった丁度そのころ、趙さんの奥様蘇蘭さんは、住み馴れたタイのバンコクを離れ国境を越えて帰国し、やはり延安に向かった愛国の情に燃える少女だった。なにしろ、バンコクから延安まで、ヒッチハイクを利用したりして徒歩でやってきたというのだから、その愛国の情の深さがうかがえる。
二人は延安で結婚した。そして、中日戦争が終わった1945年の秋、のちに中国共産党の総書記を務めた胡耀邦さんに随って、日本人居留民百万人がいたという中国東北地方にやってきた。本文でも書いたように、趙さんはここで東北人民政府日本人管理委員会の副主任となったのだが、蘇蘭女士曰く。
「あのころの趙さんは仕事の虫、朝早くから夜晩くまで仕事、仕事、仕事、日曜も休日もありませんでした。日本人の衣、食、住、就職、結婚、病人見舞い……。誰も誉めてやってくれないので、わたしが『あなたは日本人奉仕の"模範"ですよ』と誉めてあげました。ハハハ……」
趙さんは答えて曰く。
「いや、いや、日本人とは助けたり、助けられたり。いろいろ教えてもらいましたよ。東京の一高は中退でしたが、あの数年、一高を二回も三回も卒業するほど勉強させてもらいました。」
「戦後、何回か日本に行きましたが、行く先々で延安の日本工農学校の仲間や東北地方で知りあいになった人たちが『趙安博先生歓迎』と書かれたのぼりを持って迎えてくれました。嬉しかったですね。肩を抱きあって涙を流しました」
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