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(七)井上靖

―ちょっと話したい話―

わたしのサインブックから②

―養之如春―

 一九八九年、もう二十余年も前のことだ。北京放送の東京支局長をしていたわたしは、作家の井上靖さんをたずねた。東京世田谷の馬事公苑に近い井上靖さんのお宅の庭の新緑が美しい春の午後だった。日中文化交流協会の会長として語る日中文化交流の意義と展望、病軀を押して書きあげた巨作『孔子』の作者として語る孔子の人間像、「わたしの腕はプロの写真家に敗けません」とアルバムをひろげて語る黄河の旅、楊子江の旅、「毎日続けていますよ」と実演をまじえて語る健康法……などなど、庭のよく見える洋室の応接間から和室の書斎に席を移して四時間ほどお話をうかがった。

井上靖さんからいただいた題字「養之如春」

 中休みに、井上さんはたっぷり墨を浸した筆を執って、ゆっくり一画一画、「養之如春」(これを養う春の如し)という四文字を書いてくださった。この四文字「万事、焦ることはない。春の光が万物を育てるように、春の心であたたかくゆっくりやればいつか事はなる」といった意味だそうだ。井上さんはよく新年の書き初めにこの四文字を書いていると話しておられた。そして、さらにことばを続け「養生もそうでしょう。病気を治すには、癒す側のお医者さんの春の心とともに、癒される側の患者さんの春の心も欠かせませんね」とおっしゃった。これは大手術を終えて自宅で静養を続けられているご自分の体験から出たことばなのかも知れない。

自宅応接間で中国の旅について語る井上さん(右)、左は筆者

―テレフォン句会―

 日本の大作家井上靖さんと差しで話したあの満ち足りた四時間、あれから二十余年の歳月が流れた。わたしは古稀を迎え、さらに喜寿を迎えた。自然の掟であろう、あれやこれやと病気とお付き合いするようになった。入院したり、手術をしたり……、二十余年前にはまったく考えもしなかったようなこととぶつかり、悩み焦りただただ「俺、俺」で、まわりの人にわがままに振るまったりすることもあった。

  

ご自分の詩集『傍観者』のとびらのページに「わたしがいまよく考えていることばです」
と言って書いてくださった孔子のことば

 こうしたある日、ふと頭を掠めたのが上述の井上さんの春の光、春の心のお話だったのだ。わたしは目を閉じ、あの日の井上さんのお宅での一齣一齣を静に思いおこし琴線に触れるというか、目から鱗が落ちる思いがした。

 そのころから、わたしは回りの人や、事物、自然……に、わたしなりの春の心を注ぐようになった。自分の病気にも春の心で向いあい、次第に明るさを取りもどすようになった。そうした心を綴る俳句を作るようになった。やはり病気を患っている仲間と誘いあって電話で俳句を交換しあうテレフォン句会を楽しむようになった。お互いに井上さんのいう春の心で支えあい、励ましあって老いの日を静に楽しんだりした。春の心は、わたしにとっての最高の良薬だと思うのだ。

自宅書斎で執筆中の井上靖さん

 振り返ってみれば、二十年前に井上さんから春の光、春の心のお話しをうかがった当時のわたしは元気一杯、病気知らずの働き盛り、井上さんの話の春の光、春の心、文字で聞いていていただけて、心で聞いていなかったようだ。

―美しく老いたい―

 井上靖さんは一九九一年一月二十九日に八十三歳で亡くなられた。「美しく老いたい」というねがいどおりの生涯だった。井上さんは『病床日記』という詩を遺している。『スバル』(集英社刊)の編集部がこの原稿を受け取ったのが一月十六日というから、恐らく亡くなられる数週間前の作品ではないだろうか。この詩のなかで、わたしがお話をうかがった井上宅の書斎にもふれている。この部分を書き抜きして、井上靖さんをしのびつつ筆を擱くことにしよう。井上さんのいう春の心、癒される側の春の心が、一字一句に強く感じられる。

井上靖さんとの対談、聞き手(左)は筆者

 ……

 一日、端坐して、

 顔を庭に向けている。

 樹木も、空も、雲も、風も、鳥も、

 みな生きている。

 静かに生きている。

 陽の光も、遠くの自動車の音も、

 みな生きている。

 生きている森羅万象の中、

 書斎の一隅に坐って、私も亦、生きている。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』
  • 東眺西望(六)
  • 東眺西望(五)
  • 東眺西望(四)
  • 東眺西望(三)
  • 東眺西望(二)
  • 東眺西望(一)
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