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 題字余韻

 溥傑さんは、中国最後の封建王朝清朝のラストエンペラー溥儀の実弟である。

 溥傑さんの後半生は、皇族から一庶民に衣換えする旅路だったといえよう。撫順の戦犯管理所を、1960年に出所してふたたび北京に住むようになる。その第一歩は景山公園の園芸係だった。その後、政治協商会議に席を移し清朝の歴史の研究にあたり、あれやこれやの要職にもついた。だが、一庶民になろうという願いは変らなかった。

 公用車を使わずバスに乗るのも、買物籠をさげて市場に行くのも、気軽に街の料理屋さんの看板を書くのも……、すべてこの願いの延長線にあったのだ。

 ちなみに、溥傑さんは中日友好協会の理事を務めていたが、その関係の会議や宴会、座談会などにもバスで出掛けていたそうだ。溥傑さんは、中日友好の仕事はわたしの心の支えです。いつでも、どこへでも手弁当で出かけますと話していた。

 皇族から庶民へーー溥傑

 中国最後の封建王朝である清のラストエンペラーで、傀儡(かいらい)満州国皇帝だった溥儀さんの弟の溥傑さん(1907~1993年)との初対面は、混み合うバスの中だった。1980年代のことである。わたしは北京史研究会という市民団体の会員で、溥傑さんはこの会の役員をしていた。溥傑さんも、わたしもこの会の会議に向かう途中だった。

 新聞やテレビで溥傑さんの顔をみて知っていたわたしはバスを降りると「溥傑先生、北京史研究会の会議ですか」とご挨拶した。溥傑さんは「ハイ、そうです。まだ少し時間がありますが、わたしはいつも早めに来て、あたりを散歩するんですよ。足の鍛錬にもなります」と話した。わたしたちは二十分ほどおしゃべりをしながら散歩をし、それから会議の会場に入った。

 その次の年だっただろうか、わたしはまたバスの中で溥傑さんにお会いした。

 「どちらへ?」

 「友誼病院に入院している家内に食事をとどけに行くところです」

 溥傑さんは、胸の前に風呂敷で包んだお弁当箱を大事そうに抱えていた。ちなみに、溥傑さんの夫人は、日本の天皇家とも縁の深い嵯峨侯爵家出身の嵯峨浩さんである。溥傑さんとバスについては、『溥傑自伝』(中国文史出版社)の序で、李達文さんは次のように書いている。

 「溥傑さんは、職位からいっても、政府の規定で公用車を使える身分だったが、それを嫌い、好んでバスを使った。公式の宴会にも時間ぎりぎりにバスで来て、わたしをはらはらさせた」

 1960年の特赦で撫順の戦犯管理所から釈放され、北京に帰って三十余年、溥傑さんは皇族から一庶民になろうと、ひたむきな努力を続けてきた。混んだバスに乗り、市民の中に身を置くのも、こうした心のあらわれといえよう。

 溥傑さんは、日本の学習院、陸軍士官学校、陸軍大学校で学んだので、日本語がとてもお上手だ。そこで、わたしの務め先だった北京放送でも溥傑さんによく日本語番組の『北京の四季』というコーナーで放送していただいていた。

 「車でお迎えに参りますから」と電話すると、きまって「いや、わたしは自分で行けますから、送迎は不要です」とおっしゃって、いつも時間通りに約束した放送局の正門にやってきた。きっとバスで早めに来て、放送局のまわりを散歩していたのだろう。

 放送の内容は、ウイットに富んだもので、庶民となった喜びが感じられた。わたしは、いつも聞き手をさせていただいたが、こんなやりとりもあった。

 (李)「よくバスに乗っていらっしゃるようですが……」

 (溥)「ええ、バスはいいですね。人さまに面倒をかけることもなく、とても楽しいですよ。いろいろの風景が見られるし、いろいろの話を耳にすることもできる。世間知らずのわたしにとって、バスは、社会を学ぶ学校ですね。適当に歩くので身体にもいいようですよ」

 もう少し『北京の四季』から庶民となった溥傑さんの姿がうかがえるやりとりを抜き書きしてみよう。

 (李)「北京にも北海公園のなかの『ファン膳』(ファンとは人偏に方)といった宮廷料理を食べさせる店がありますが、味はどうでしょうか。以前紫禁城で食べた料理とくらべて……」

 (溥)「美味しいですね。なにしろ、出てくる料理が熱いというか暖かい。紫禁城ではそうはいきませんでした。料理場から食事をする部屋まで運んでくるうちに冷えてしまうのでしょう。電子レンジなどありませんでしたから……」

 (李)「宴会などでおみかけすると、お酒をおいしそうに召しあがっていますね」

 (溥)「まあ、好きですね。」

 (李)「酒量というか、どのくらいお飲みになるのですか」

 (溥)「定量はありません。そのときの気分と体調にもよりますが、飲みたいときに、飲みたいだけ飲むとでもいうのでしょうか。まあ、中国でいう順其自然(自然の流れに従う)かな。でも、孔子の「乱に及ばず」はしっかり守っています。身体も心も酒で乱れたことはありません」

 (李)「中日友好協会の理事をされておられますが……」

 (溥)「はい、お役に立たない理事で恥ずかしく思っています。わたしの前半生は碌なことはしていません。せめて後半生はなにか社会にお役に立てればと思って引き受けました。どんなことでも、中日友好に、中日の平和に役に立つことであれば、手弁当でもやりたいと思っています。遠親不如近隣(遠くの親戚よりも近くの隣人)、隣同士の中国と日本が仲良くしていくことは、この二つの国の民衆に計り知れない利益もたらすことを、わたしはわたしなりによく知っています。和則両利、離則両傷(和すればともに利あり、離れればともに傷つく)ということわざの通りだと思います」

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』
東眺西望(二十八) 「天に順う」に造反した男――康大川
東眺西望(二十七) 積健為雄―趙朴初
東眺西望(二十六) 正直に話そうーー巴金
東眺西望(二十五) 鄧小平訪日随行随想(その二)
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東眺西望(二十三) 八路軍の少年兵と八木寛さん その三
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東眺西望(九) 「まあ まあ」&「どうも どうも」
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