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鄧小平訪日随行随想(その二)

きようの日のために

日本の秋の空は ひときわ明かるく碧く澄みわたり

花は咲き 鳥もうたう

 10月22日午後、鄧小平副総理の一行東京到着。わたしたちの仕事は本番、一日三、四時間の睡眠という日が始まる。

 鄧小平氏訪日の公式の肩書きは「副総理」だったが。どこでも国家元首としてのもてなしを受けた。再復活からわずか一年ちょっと、だが、すでにそれなりの実力を持っており、風貌を具えていたのである。

 鄧小平氏一行の行く先々は「熱烈歓迎」と拍手の大合唱、中国と日本の国旗の波、波、波、中国人、日本人が共に愛する菊は満開、清々しい香りが漂っていた。

 二十三日午前、国家迎賓館での盛大な歓迎式典。中国の指導者の初の日本訪問、鄧小平副総理は福田赳夫首相とともに自衛隊儀仗隊を検閲。秋の陽が中日両国の国旗を打ち振る子供たちの上に燦燦と注ぎ、中日友好の明るい未来を祝福していた。この後、首相官邸に場を移して、中日平和友好条約の批准書の交換式、中日両国の国歌が厳かに奏せられたあと、黄華外相と園田直外相が条約批准書に署名し、批准書を交換した。こうして中日国交正常化後六年、中日両国の民衆と政府の努力によって、中日の平和友好はしっかりと条約に記され、法的根拠を持つようになったのだ。

 批准書交換の式典の席上、福田赳夫首相は次のように述べた。

 「わたしは、日中両国と両国民がいまあらためて、この条約の精神を尊重し、この条約の各条項を忠実に守り、日中両国間の恒久的な平和友好関係を強め、発展させることに努力するのを保証するよう、心から期待しています」

 また鄧小平副総理は次のように述べた。

 「中日両国民は友好を求めており、連帯を求めています。中日両国民は和睦を求めており、協力を求めています。これは、十億中日両国民(当時、中国の人口は9億といわれ、それに日本の人口1億を加えて『10億中日人民』となったのだ)の共同の願望であり、歴史の発展の潮流でもあります。中国政府は、日本政府とともに、中日平和友好条約の諸条項の規定をゆるぎなく堅守し、履行していくことを願っています」

 式典の会場で、中日両国の記者の話題となったのは、「反覇権条項」、つまり条約の第二条「両締結国は、そのいずれも、アジア、太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する」という一条であった。多くの記者は、この一条は画期的な意義を持つものだとみていた。中日両国の民衆のあいだでは、この一条を「覇権を求めず 覇権を許さず」(不谋霸权 不许霸权)という民衆のことばとなって広く伝えられ、心に刻まれている。また、この一条は、中日という枠を越えて、アジアの、世界の良識ある民衆の心を捉えている。

 批准書交換式を終えた鄧小平氏は卓琳夫人ととも皇居を訪れ、皇宮正殿竹の間で昭和天皇、皇后となごやかに話し合う。そして、昭和天皇主催の昼食会に臨む。席上、鄧小平氏が「中日両国は、子子孫孫、世世代代、友好的に付きあっていくべきです」と述べると、天皇陛下は「日中両国がこのような友好関係を打ちたてたのは、歴史上はじめてのことで、いつまでも続くことを願っています」と言葉を続けたという。

 この日の午後も、夜も鄧小平氏のスケジュールは、びっしりと組まれていた。続く24日、25日、そして26日、新幹線で関西に向うまで、朝、午前、昼、午後、夜というハードなスケジュールを鄧小平氏は75歳という高齢を感じさせることなく、精力的にこなしていた。福田首相との三回の会談、大平正芳自民党幹事長との話しあい、中日国交正常化の功労者田中角栄元首相の私邸訪問。片山哲、浅沼稲次郎、松村謙三、高崎達之助、石橋湛山、村田省蔵ら中日友好に力を尽くした先人たちの親族との話し合い、日中友好団体、経済界、衆参両院議長の歓迎レセプション、新日鉄の君津製鉄所、日産の座間工場の参観……

 この訪問で鄧小平氏の通訳を務めた王効賢さん(中国駐日大使館元政務参事官、中国人民対外友好協会元副会長、中日友好協会副会長)は、当時を思い出し、次のように語っている。

 「鄧小平さんは、毎日本当に『駆け足』でしたよ。一刻も無駄にしないという心がまえで日本を観察し、日本に学んでいましたね。参観に出かけるときは、約束の時間の2、3分前に必ず宿泊先のロビーに姿を見せ、いつも時間通りに出発していました。鄧小平さんは『われわれは、スケジュールを組むとき、午前に一つ、午後に一つ、そして多いときには夜に一つ足すというのが習慣になっている。だが、日本側の組むスケジュールは、何時何分から何時何分と分秒きざみだ。われわれは、もうこれ以上のろのろしてはいられない。失われた時間を取り戻すのだ!』と話していました」

 中日平和友好条約の批准書の交換、そしてそれに続く中国の老革命家と日本の老天皇との昼食をはさむ2時間あまりの語らい、これは一つの時代の終焉を静かに、厳かに告げるものであり、一つの時代の到来、条約という形で確認しあった中日間の平和友好という時代の到来を静かに厳かに告げるものだった。到来する新しい時代に寄せる期待を鄧小平氏は東京での記者会見で自分のことばを噛み締めるように次のように語った。

 「中日間には、一段の不幸な歴史があり、中国人民はきわめて大きな災難に遇い、日本国民が受けた損失も少ないとはいえません。しかし、これも二千年以上に及ぶ友好の歴史とくらべれば、やはりたいへん短い期間のものだったといえましょう。わたしたちは、前向きの姿勢で、未来に眼を向け、ともに努力して、中日両国民が世世代代友好的に付き合っていくことを願っています」

 この訪日の5年後の1984年、鄧小平氏は北京を訪れた中曽根康弘首相に次のように話している。

 「中日関係は長期的な角度にたって考慮し、発展させるべきです。第一歩は21世紀、そして22世紀、23世紀へと発展させていく、いつまでも友好的に付き合うべきです。このことは、わたしたちのあいだのすべての問題を超越する重要性を持っています」(鄧小平文選第三巻)。このことばは、訪日後の歳月にさらに深思熟慮を重ねた鄧小平氏が遺した貴重な名言だと思う。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』

東眺西望(二十四)
東眺西望(二十三)
東眺西望(二十二)
東眺西望(二十一)
東眺西望(二十)
東眺西望(十九)
東眺西望(十八)
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東眺西望(十五)

東眺西望(十四)
東眺西望(十三)
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東眺西望(三)
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