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(五) 杉村春子さんと北京の秋


―ちょっと話したい話― 

 九十一歳まで生涯現役を通した日本の名女優の杉村春子さんとは二回お話したことがある。といっても、二回とも日中文化交流協会主催のパーティーの席上の立ち話だったが、とても印象に残っている。 


北京の秋を語る杉村春子さん、右は筆者

 一回目は、わたしが「まだ広島に行っていない」と話すと、杉村さんはわたしの目をじっと見ながら「ぜひ行ってください。日本人の平和の心をわかっていただけると思いますよ」と、ゆっくりと念をおすように話された。わたしは「ぜひ行ってきます」とお約束したのを覚えている。


初の日本新劇訪中公演のさい北京で、左より周而復、杉村春子、田漢、岸輝子、夏衍(1960年秋)

 二回目にお話したときには、北京の秋が話題にのぼった。杉村さんは「北京の秋は素晴らしい、毎年でも行きたい。北京の秋には、いろいろ懐かしい思い出がいっぱいあるんですよ」と目を輝かせ、声を弾ませて話していた。


―杉村春子さんと白菊―

 杉村春子さんの北京の秋の懐かしい思い出、わたしの頭にすぐに浮かんだのは、中日国交正常化が実現した一九七二年の北京の秋のあるひとこまである。中日国交正常化を祝って北京の人民大会堂で開かれた宴会の席上、周恩来総理が和服姿の杉村春子さんに歩み寄り、白い菊の花を贈ったのだ。杉村さんは、この白い菊の花を押し花にして、ずっと大切にしていたという。


鄧穎超(右·周恩来夫人)さんから自宅に咲いた白菊を贈られる杉村春子さん(1977年秋)


 周恩来総理は、それから四年後の一九七六年に亡くなられたが、その翌年の一九七七年の秋に杉村さんは周恩来総理の未亡人·鄧穎超女史を見舞った。鄧穎超女史は「わが家の庭に咲いた白菊です」といって、一束の白い菊の花を杉村春子さんに贈った。白菊は、杉村春子さんの北京の秋の思い出のなかでも、きっと格別の存在だったことだろう。


ー杉村春子さんと万里の長城ー
 


万里の長城での杉村春子さんと加藤周一さん(1971年秋)

 杉村春子さんの秋の北京の懐かしい思い出といえば、こんなエピソードもある。一九七一年の秋、中島健蔵さんら日中文化交流協会の仲間たちと北京を訪れ、万里の長城で遊んだときのことだ。杉村さんは記念写真をと、長城の壁の一角に立って同行のベネチア国際映画祭、ベルリン国際映画祭受賞の日本の名監督の熊井啓さんにカメラを渡し「ちょっとお願い」といってシャッターを押してとたのんだ。普通だったら、せいぜい二、三十秒もあれば終わるであろうこの「作業」、映画監督の熊井啓さんの手にかかるとそうはいかない。そのときの模様を同行の評論家、日本の良心、日本の頭脳といわれた加藤周一さんは『杉村春子さんと中国』というエッセイで次のように書いている。

 「……しかし、ひと度写真器を手にするや、熊井さんには『ちょっと』ということがない。たとえ観光記念撮影だろうと何だろうと、壁に攀じ、地に這い、もはや辺りに人なきが如く、最適の撮影角度をもとめてやまない。驚いた観光客がたちまちその周りに集まってくる。杉村さんはすこしもさわがず、いくらか微笑んで、たのしそうに立っていた――のであるが、おのずからそこには一種の花があった」


杉村春子さんの書


 たしかに、杉村春子さんは、いつ、どこに居ても花があった。さしずめ、清らかな、香り高い白菊だろう。秋の陽に輝く北京の万里の長城で名優と名監督の織りなす名演技、それを名文に綴る名評論家、わたしはこの名優、名監督、名評論家と三役そろったエピソードが大好きである。

 杉村春子さんは、一九九七年の春、生涯現役で九十一歳で亡くなられた。この年のスケジュールには秋の北京訪問も組まれていたと聞く。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』
  • 東眺西望(四)
  • 東眺西望(三)
  • 東眺西望(二)
  • 東眺西望(一)
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