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 井上靖さんからその扉のページに「死生命あり 富貴天にありーー孔子 李順然様 井上靖」と記された詩集「傍観者」をいただいた。

 井上さんは「孔子のこの数文字は、昨今のわたしがよく考えていることばです」と語り、その天命観を展開してくれた。

 「人間は万能ではありません。なんでも出来るものではない。しかし、力を尽くさなければいけない。これが人の生きる道なのです」

 大病から脱けだしたばかりの井上靖さんが、その最後の小説「孔子」に挑戦したのは、こうした天命観に推され、支えられてのことだろう。八十歳のときのことだ。この本を書くために、井上さんは老躯、病身を押して孔子が活躍した黄河流域を八回も取材旅行で訪れている。巴金をして「これが井上文学だ」と言わしめた「孔子」に精魂を傾けたのだ。力を尽くしたのである。

 追悼会の席の井上靖さんのなきがらの傍らには、「孔子」と愛用していたペンインク、原稿用紙が添えられ、無言で井上靖さんを見送っていた。

養之如春――井上靖

 1991年1月29日の深夜、中国国際放送局東京支局の記者陳風君から「井上靖先生が亡くなられました」という電話があった。私の頭を掠めたのは「美しく老いたい」という井上靖のことばだった。井上靖さんは日本の、中国の、世界の多くの人に惜しまれながら、美しく老い、美しく逝かれた。

 この夜は、なかなか寝付かれなかった。井上靖さんとの出会いの一齣一齣が頭に浮かんでは沈んでいった。日記によると、井上靖さんと最後にお会いしたのは、1989年5月2日だった。中国国際放送局の記者として、世田谷の馬事公苑に近い井上邸にお伺いした。雨があがり春の陽が明るく輝く気持ちのいい午後だった。井上邸の庭の緑も美しかった。ふみ夫人が入れてくださったお茶の緑も美しかった。ふと、北京の五月の緑、お茶屋さんの店頭に姿を見せる新茶の緑が頭に浮かぶ。至上の眼福に恵まれたひとときだった。

 ともに春の陽に輝くお庭が望める様式の客間から和式の書斎に席を移したりしながら、四時間近く井上靖さんのお話を聞くことができた。

 井上靖さんは中国の旅について語った。井上さんの代表作とされる『孔子』は、中国文壇の巨匠巴金をして「これこそが井上文学なのだ」と言わしめた大作だが、井上さんはこう話していた。

 「わたしは1981年から1988年にかけて、孔子の故郷である黄河下流の山東省を二回旅しました。また、孔子が活動した黄河中流の河南省を六回旅しました。こうした旅がなかったら、『孔子』は書けませんでしたね」

 井上さんは、ユーモアたっぷりの表情で話を続けた。

 「もしも、もう一回中国に行けるならば、ぜひ河南省の杞県に行ってみたいなあ。「杞憂」ということばがあるでしょう。昔むかしの杞の国の人が天が落ちてこないかと心配した故事から生まれた言葉ですが、杞の国は現在の杞県、あそこの麦畑に寝そべって、はたして天が落ちてくるかどうかみてみたいんですよ。あそこには、きっといろいろ古い面白いものが沢山あると思いますね」

 私は農民の生活を体験しようと、杞県近くの農村で春夏秋冬を送ったことがある。どこまでも続く麦畑、とごまでも続く青い空、この土地で子々孫々、生生代代暮らしてきた善良•素朴な農民たち••••••、井上さんの話を聞きながら、私はあの一年目にした風景を懐かしく思い浮かべていた。

 わたしは井上さんの杞県の旅に大賛成した。だが、それは実現しなかった。病魔がその命を奪ってしまったのだ。残念でならない。

 話はさらに弾んだ。井上靖さんはこう語った。

 「河南はとても魅力的なところですよ。甲骨文字が見つかったのも河南省でしょう。もしも生まれ変わってきたら、やはり中国ですね。中国を研究し、中国を書きますね。甲骨文字も八歳ごろから勉強すれば、八十歳ぐらいでかなりものになるでしょう。そうしたら、きっと面白いものがたくさん書けるでしょうね。

 日本の朝日新聞が出版した資料集『日本百年の歩み』の1957年のページには「発足した岸内閣は日中関係に極めて消極的態度を示した」と記されている。丁度この年に、井上靖さんは積極的中国訪問の第一歩を踏む出しているのだ。そして、このときから中日関係に暖かい春の陽が差すときも、また厳しい冬の黒雲に覆われるときも、変わることなく日本人の心を携えて中国を訪れ、中国人の心を携えて日本に帰る旅を続けている。こうした往復は27回に及んだ。

 中国の旅で、井上靖さんは中国の作家老舎、巴金、謝冰心、曹禺と膝を交えて語りあい、心を交しあった。巴金はその『随想録』で「それは心と心の触れあいだった」と書いている。

 文化大革命で老舎は四人組みの迫害を受けて自尽した。井上靖さんはこのことを英字新聞で知り、北京で老舎と語りあった楽しかったひとときに思いを馳せる。そして、そのとき老舎から聞いた故事に基づいて『壺』というタイトルの短篇を書いて老舎を偲んだ。

 『壺』を読んだ巴金さんは、たいへん感動し、その感想を次のように綴っている。

 「われわれ中国の作家があれやこれやの理由で沈黙していたときに、井上靖先生は筆を執って中国の友人の冤罪を晴らしてくれたのです。井上先生は淡々とした筆致で実直•善良な作家の姿を描きあげて、老舎先生に替って名誉を回復してくださったのです……わたしは、日本の作家から友と交わり、友を守る道を教えてもらいました」

 話を井上靖さんの家の客間にもどそう。

 井上さんは「ちょっと一休みしよう」と言っておみせしたわたしのサインブックのページをめくった。そこに現れる友人一人一人の題詞に懐かしそうに目を通した。

 廖承志さんの愛犬MOKOのスケッチをみて、井上さんは「廖さんは本当に多芸多才な方ですね」と言った。趙朴初さんの「積健為雄」の四文字には大きく頷き、「素晴らしい。気品に溢れている。やはり宗教家ですな」と言った。そして、「じゃあ、わたしも一筆書かしてもらいましょう。こうした方々にはとてもかないませんが」と言って筆を執った。

 たっぷり墨を浸した筆で、ゆっくりと一画一画「養之如春」と書いてくださった。井上靖さんの話によると、この四文字はよくお正月に書くそうで、「万事急ぐことはない。春の光、春の心が万物を育てるように焦らずゆっくりやればおのずから事は成る」といった意味があるそうだ。

 わたしは思った。井上靖さんと中国の作家たちのあいだの誼しみも、きっとこうした春の光、春の心にはぐくみ育てられたのだろうと。

 満ちたりた四時間近い語らい、いつの間にか春の陽は西に沈み始めていた。おいとまを告げると、井上靖さんは立ち上がって本棚から一冊の本を取り出し、わたしにくださった。詩集『傍観者』だ。「そうだ。ここにも一筆書きましょう」と言って、その扉のページに太いペンで「死生命あり富貴天にあり——孔子」と書き署名した。そして、「いま、わたしがよく考えていることばです」と言い、このあと「天命」ということばをめぐって、いろいろお話を聞くことができた。

 「人間、何でもできるものではありません。そこには天命というものがあります。しかし、人間はそのなかで力を尽くさなければなりません。これが人間の道でしょう」——井上靖さんは、こう話されていた。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』

東眺西望(三十三) 友は多ければ多いほどいい――廖承志
東眺西望(三十二) 花を愛する硬骨漢--老舎
東眺西望(三十一) 歴史の語り継ぎ――趙安博
東眺西望(三十)  膝を交えて改革論議――張香山
東眺西望(二十九) 皇族から庶民へ―溥傑
東眺西望(二十八) 「天に順う」に造反した男――康大川
東眺西望(二十七) 積健為雄―趙朴初
東眺西望(二十六) 正直に話そうーー巴金
東眺西望(二十五) 鄧小平訪日随行随想(その二)
東眺西望(二十四) 鄧小平訪日随行随想(その一)
東眺西望(二十三) 八路軍の少年兵と八木寛さん その三
東眺西望(二十二) 八路軍の少年兵と八木寛さん その二
東眺西望(二十一) 八路軍の少年兵と八木寛さん その一

東眺西望(二十) 北京放送局の庭の桜
東眺西望(十九) 「誠心誠意」が生んだ麺食いの本
東眺西望(十八) 中国飲酒マナー俗説と日本
東眺西望(十七) 大晦日の夜のセレモニー
東眺西望(十六) 北京の地下鉄の駅名に思う
東眺西望(十五) 夏衍

東眺西望(十四) 夏の甲子園
東眺西望(十三) 宇都宮徳馬
東眺西望(十二) ある「本」の話
東眺西望(十一) 卵・玉子・たまご・タマゴ
東眺西望(十) 孫平化
東眺西望(九) 「まあ まあ」&「どうも どうも」
東眺西望(八) 北京「鰻丼」食べ歩る記
東眺西望(七) 井上靖
東眺西望(六) 廖承志
東眺西望(五) 杉村春子さんと北京の秋
東眺西望(四) 北京飯店509号
東眺西望(三) 外国語上達法いろは
東眺西望(二) 徳は孤ならず 必ず隣有り
東眺西望(一) 日本人上海市民第一号
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