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(十一)卵・玉子・たまご・タマゴ

―ちょっと話したい話―

 タマゴの思い出と書きだして、まず頭に浮かぶのは、小学校三年か四年のころのある出来ごとである。もちろん、それ以前にもタマゴを見ているし、食べているだろうが具体的なことは思いだせないのだ。

 

――咯哈達(ゴオゴオダア)――


子供のころの筆者(前列左)、右は妹、後列左から長兄、次兄、三兄(東京渋谷代官山の家の前で)――お奈美さん、お龍さん、お竹さん……ありがとう!

 わたしは在日中国人二世で、少年時代を日本で過ごした。たしか、小学三年か四年、つまり九歳か十歳ごろのことだ。そのころは、例の戦事下の日本で食糧事情もだいぶきびしくなっていた。タマゴはなかなか手に入らなくなっていた。

 そんなある日、家でお手伝いさんをしてくれていたお奈美さんが千葉の実家からひよっこり遊びに来てくれた。背にはサツマイモやネギなどを背負い、手には生きたニワトリを入れた籠をぶらさげて……。始めて見る生きたニワトリ、恐れる恐れる籠のなかのニワトリを見るわたしと妹の頭を撫でながらお奈美さんは言った。「このトリ、とてもよくタマゴを生むのよ。二人で食べて早く大きくなってね!」

 たしかにこのニワトリ、よくタマゴを生んだ。続けざまに数日生むこともあった。生み終ると、いかにも得意げに「コケッコッコー」とラッパを吹くように胸を張って鳴いた。ちなみに、「コケッコッコー」、中国人の耳にはサブタイトルにある「咯咯達」と聞こえるようだ。

 中国の大手養鶏場から「咯咯達」というブランドのタマゴが売りだされている。さしずめ「コケッコッコー」ブランドだろう。

 次兄が百科辞典で調べてくれたところ、このニワトリはプリマスロックという種類で、よくタマゴを生むそうだ。わたしと妹は「プリプリ」と呼んで、ペットのようにこのニワトリを可愛がった。

 母親のいないわたしたち中国人の家庭にあって、あれやこれやわたしたち兄弟(妹)五人の面倒をみてくれていたお奈美さん、そしてお竹さん、お龍さん……、こうしたごくごく普通の日本の女性たち、ご健在ならば、ぜひお会いしてお礼を申しあげたいとよく思う。

 

――木樨肉(ムーシーロー)――


二十歳の筆者、日本を離れて帰国する前に越後中里でスキーを楽しむ

 二十歳の秋(1953年)、わたしは日本を離れて中国に帰ってきた。文字通り「新大陸」での「新生活」のスタート、見るもの聞くもの新鮮であり、見るもの聞くものに感動した。

 そんなある日、中国語も話せないのに大胆にも一人で街かどの小さな食堂の暖簾をくぐった。なにを注文しようか。隣のテーブルで食事をしている人の料理が目に止まった。ひまわりの花のように黄金色に輝くタマゴと緑の野菜の炒めもの、黄と緑のコントラストがとても美しく、美味しそうだった。

 給仕さんを呼んで隣のテーブルの料理を指差し、さらに指を一本立てた。「あの料理を一皿」、わたしの手活にうなずいた中年の給仕さんは、奥の調理場に向かって「ムーシーロー」と歌うように叫んだ。調理場からも「ムーシーロー」と注文了解の声が伝わってくる。わたしは、持っていた雑誌の空白に、急いで片仮名の大きな字で「ムーシーロー」とメモした。美味しかったら、これからもこの「ムーシーロー」を注文しようと思って……。

 美味しかった。しかも美しかった。それから日曜日のたびにこの小さな食堂を訪れ「ムーシーロー」を楽しんだ。中年の給仕さん、張さんとも仲良しになった。わたしは張さんを「張同志」と呼び、張さんはわたしを「李同志」と呼んだ。張同志はいつも笑顔を浮かべて店の入口までわたしを見送ってくれた。

 「ムーシーロー」の漢字は「木樨肉」、タマゴの黄色を木樨、モクセイの黄色で捉えたのだろう。※②タマゴと肉、野菜、きくらげなどを炒めた家庭料理である。いまでは、同音の「木須肉(ムーシーロー)」と書かれることが多い。

 半世紀も昔にめぐりあった「ムーシーロー」、ひまわりの花のように輝くタマゴの黄金色は、わたしの二十歳の青春シンボルカラー、いまもわたしの脳裏に深く刻まれている。

 

――芙蓉(フーロン)・木樨湯(ムーシータン)――


天安門楼閣上で実況中継する筆者(中央)、食糧難でみなほおがこけている――本文参照1960年5月9日

 1959年から1961年にかけての三年、中国は食料、油、肉類などの供給不足という事態に見舞われた。「三年困難時期」という。農村部では餓死者もでた。二十代のわたしですら、三階のオフィスに行く階段を登るのがきつかった。53キロの体重が48キロに減ってしまった。

 そんなある日、上司から天安門広場で行われる日本人民の反米愛国闘争支援の北京市民百万人の集会の実況中継のアナウンサーをするように言われた。私は北京放送の日本語番組のアナウンサーをしていたのだ。天安門の楼閣の上にマイクを据えて、二時間から三時間ほど立ったままでアナウンスするのだという。身体がもつかなとちょっと心配だった。

 実況中継の三、四日前だったと思う。アナウンサーの同僚の王恵美さんが、「がんばっていい放送をしてね」と大きなどんぶりいっぱいのタマゴのスープを持ってきてくれた。「芙蓉(フーロン)・木樨湯(ムーシータン)」、タマゴの白身(芙蓉の白)と黄身(木樨の黄)を巧みに流し分けた美しい、心のこもったスープだった。「湯」はスープのこと※③。同時のタマゴは貴重品のなかのまた貴重品、長いあいだ目にしたことも口にしたこともなかった。王さんは、育ち盛りの三人の男の子のお母さん、この食糧難の時代にあって、タマゴはそれはそれは貴重なものだったことだろう。湯気をたてている大きなどんぶりを前にして、わたしはしばし目を閉じ、手を合わせるのだった。

 王恵美さんは、いまアメリカで暮らしている。そして、土曜日には太平洋を越えて電話で元気な声を聞かせてくれている。

 追記:天安門の楼閣の上からの実況放送はまわりの人たちに励まされ、助けられて、無事に終えることができました。メモによると、1960年5月9日午後のことでした。この日の夜、NHKはわたしたちの実況放送の録音を使って全国向けのニュースで天安門広場の百万人の北京市民の集会の模様を伝えたそうです。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』
  • 東眺西望(十)
  • 東眺西望(九)
  • 東眺西望(八)
  • 東眺西望(七)
  • 東眺西望(六)
  • 東眺西望(五)
  • 東眺西望(四)
  • 東眺西望(三)
  • 東眺西望(二)
  • 東眺西望(一)
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