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八路軍の少年兵と八木寛さん その二

北京放送局での八木寛さん

八木寛さん(右二)と青年時代の前国務委員・外交部長唐家センさん(右三)
前外務次官・駐日大使徐敦信さん(左一)

 八木さんは北京放送局日本語部での20余年、毎日毎日のそのことばで、その行動で中国人スタッフ、日本人スタッフの信望を集め、日本語組組長を務めたこともあった。北京放送の70年の歴史で、外国人が一つの語言放送の組長となったのは、多分八木さんだけだろう。

 八木さんは、数々の宝物を北京放送日本語部に遺してくれた。印象に残ることば、印象に残る場面を思い出しながら二つ、三つ書き記しておこう。

 八木さんが残したことばで、とても印象に残っているのは、こんなことばだ。

 「毎日、送信所(中文参考:「発射台」)のアンテナから日本に向けて流される一分一秒の電波は目には見えないけれど、とても高いお金を払っているんだよ。このお金は、労働者や農民が汗を流して手に入れたお金、わたしたちはこれをお預かりしているのだ。一銭一厘たりとも無駄にしてはいけない。番組製作に当たっては。一分一秒たりとも手を抜いてはならない」

 八木さんはこう語り、こう実行した。八木さんの原稿には、どのページにも一字一句手を抜かない真剣勝負そのものの気迫が感じられた。わたしは、よく八木さんのこのことばに、この行動に戒しめられて原稿を何回も読みなおしたり、書きなおしたりしたものだ。これはわたし一人ではないだろう。北京放送日本語部の作風となっていまも残っていることだろう。

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 1958年の反右派闘争のときのことだ。八木さんの書いた北京の「胡同の物売りの声」という番組(中文参考:「胡同的叫売声」)が「迎合最反動的、最落後的階層」とか「充分表現了対已経徹底改造了的旧社会和個体経済的依恋」(中文参考:「最も反動的な、最も落後した階層に迎合するものだ」とか「すでに徹底的に改造された旧社会と個人経営経済に寄せる恋々とした情をあますところなく示すものだ」)などなどきびしく批判された。その実、「胡同の物売りの声」はリスナーのリクエストに答えたもので、その録音は、わたしが八木さんと一緒に「デンスケ」と呼ばれる日本製の重い録音機を担いで取ってきたものだったのだ。

 八木さんは、こうした批判を冷静に受けとめたが、それに屈することはなかった。前にも増して実事求是(「実際にもとづいて事を運ぶ」「実際にもとづいて事を考える」などと訳されている)の思想路線が大切なことを説き、中間層を主な対象とするという「中間リスナー論(中文参考"中間聴衆論")」を主張しつづけた。次の年、つまり1959年に開かれた座談会では、もっとリスナーの声に耳を傾けるべきだと強く訴え、何人かの同僚と一緒にリスナーへのアンケート調査をしてはと提案した。こうして、北京放送での初めてのアンケート調査が1959年に実行されたのだ。

 八木さんは、その受け持った「お便りの時間(中文参考"聴衆信箱")」でも前にも増やしてリスナーの手紙を取り上げ、リスナーのリクエストに答えるようになった。また中間層の人たちから大歓迎された放送物語「水滸伝」「西遊記」「街で拾った話(中文参考"北京街頭見聞")」「あの話、この話(中文参考"東鱗西爪")」……などの番組を一つまた一つと誕生させていった。

 1962年に開かれた国務院外事弁公室の対日宣伝工作会議では「対日宣伝対象応為広大中間群衆」とはっきり決められた。この会議の内容の伝達を聞いて八木さんの顔には、爽やかな笑みが浮かんだ。それは自分が正しかったことを自慢する笑いではなかった。自分がやってきたことが中日友好に役立った。労働者、農民から預かっているお金を無駄にしなくてすんだ……という安堵からでた爽やかな笑顔だった。八木さんとは五十年お付き合いがあったが、この間、八木さんが自分のことを自慢するのは一度も見たことも、聞いたこともなかった。

 鄧小平同志は「過去、われわれの革命のすべての勝利は、実事求是の精神にもとづいて収められたものである。現在、われわれがおこなっている建設も、実事求是の精神にもとづいて進められるべきだ」と述べている。わたしは、われわれの対外放送を成功させるのも、実事求是の精神にたよるべきだと思う。「中間リスナー論」は、実事求是の精神にもとづいて提出だれたものだ。八木さんは、その仕事の実践を通じて、この道理を教えてくれた。

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 八木さんは、北京放送局の中国人スタッフ、とりわけ若い中国人スタッフの仕事や学習、生活に気を配ってくれた。ひょっとすると、例の八路軍の少年兵小張の姿をわたしたちに感じたのかもしれない。

 そのころ、独身だったわたしは、八木さんと同じ「老302」と呼ばれる宿舎に住んでいた。わたしが風邪をひいてちょっと熱を出したりするとまず行くのは「八木病院」、八木さんのお宅だった。奥さんの敏子さんがおかゆを炊いてくれ、茶碗蒸しを作ってくれ、わたしは八木家の軟い布団で静養した。扁桃腺の手術を終えて同仁病院を退院するとき、迎えに来てくれたのはやぎさん。わたしは「八木病院」に直行してそこで2・3日静養したあと、独身宿舎に帰った。すべてが二人な調子だった。

 北京放送日本語部で八木さんの教えを受けた若い中国人スタッフは、名を挙げられる人だけでも百人近くにのぼる。このなかには、駐日公使、外交部部長、国務委員などを歴任した唐家センさん・駐日大使、外務次官、全国人民代表大会外事委員会副主任などを歴任した徐敦信さんも名を連れている。

 北京放送の東京駐在記者をしていたころ、大使館で公使をしていた唐家センさんに会って昔話をしたことがあるが、唐さんはぜひ八木さんを大使館にお招きし一緒に食事ををしてお礼をしたいと話していた。この「唐家セン公使主催の謝恩の宴」、わたしは一足先きに北京に帰っていたので開かれたかどうか定かではない。だが八木家のアルバムをみたとき、そこに外交部長になった唐さんが夫人同伴で北京の八木宅を訪れ、和やかに八木さん夫妻と話し合っている写真を発見した。唐さんに注ぐ八木さんの慈愛に満ちた瞳、八木さんに注ぐ唐さんの敬愛に満ちた瞳、東洋独特の師弟愛が漂っていて、とても美しかった。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』

東眺西望(二十一)
東眺西望(二十)
東眺西望(十九)
東眺西望(十八)
東眺西望(十七)
東眺西望(十六)
東眺西望(十五)

東眺西望(十四)
東眺西望(十三)
東眺西望(十二)
東眺西望(十一)
東眺西望(十)
東眺西望(九)
東眺西望(八)
東眺西望(七)
東眺西望(六)
東眺西望(五)
東眺西望(四)
東眺西望(三)
東眺西望(二)
東眺西望(一)

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