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(四)北京飯店509号

 ちょっとミステリー小説のようなタイトルだが、以下の話はすべてノンフィクションである。

―梅原龍三郎と北京―

 ここでいう「北京飯店509号室」は、色彩の魔術師といわれた日本画壇の巨匠、フランス政府からコマンドール勲章(フランス芸術文化勲章の最高章)を受けるなど世界でも知られる梅原龍三郎(1888~1986年)が北京での定宿としていた北京飯店のお気に入りの部屋である。

 梅原龍三郎は、1939から1943年の5年間に北京を6回訪れている。2、3ヶ月のこともあれば、半年以上ということもあった。この6回とも北京飯店に泊まり、509号室がお気に入りだったようだ。

 梅原は『画集北京』の序文で「北京飯店五階の大きな窓から長安街や紫禁城(筆者注:故宮)を眺められる一室を占めることが出来たのは幸いだった」と書いている。この部屋から長安街や紫禁城が見えたというところからみて、北京飯店509号室は北京飯店5階の西向きの部屋だったことがうかがえる。

―紫禁城 雲中天壇 北京秋天―

 梅原は、この509号室の窓から眺める風景を精力的に描き続けた。

 梅原はこう書いている。

 「北京の生活はホテルの窓から紫禁城と長安街が目の前に見えて朝方の景色が美しいので、早くから明るくなるのを待って外を写した」
 「毎年同じところを描くのだが、光の美しいときには常に新しい歓こびを感じ、あかずに描くことができた」

   

 梅原龍三郎の北京訪問は、51歳から55歳までのまさに円熟期の制作旅行で、世界的にも知られる「紫禁城」「北京秋天」「雲中天壇」といった名画を残している。

 梅原自身も「北京での生活は、私のこれまでの人生で、いちばん張りのある時であったと思う」と書いている。常日頃、「私は美しいものしか描かない」と言っていた梅原にとって、北京は右を見ても左を見ても美しいものに溢れていたのだろう。

―音楽を聞くような空―

 梅原龍三郎の6回の北京訪問のうち5回は秋、つまり北京の空がいちばん美しい秋だった。その名画「北京秋天」に描かれている紫禁城、そのうしろに続く西郊外の山脈(やまなみ)、そして画面の3分の2を埋める空、梅原はこの北京の秋を「まるで音楽を聞いているような空だった」と書いているが、この絵も間違いなく北京飯店509号室の大きな窓を通して描いたものだろう。

―パレスビュールーム―

 梅原龍三郎の北京制作旅行から、かれこれ70年の歳月が流れた。北京飯店509号室は、どうなっているのだろうか。もう無いともいえるし、まだあるともいえる。

 というのは、梅原が泊った昔の北京飯店の西隣りに8階建ての北京飯店が増築され、そのまた西側に軒を連ねて10階建ての貴賓楼という五つ星のホテルがオープンしているのだ。この8階建てと10階建ての建物にさえぎられて、昔の北京飯店の西側の部屋の窓から、梅原が目にした紫禁城や長安街を眺めることはもう出来なくなっているのである。「もう無いともいえる」とは、こうした事情を指しているのだ。

 では「まだ有るともいえる」とは、どういうことなのか。前述の貴賓楼の5階から9階の西向きの客室は「パレスビュールーム」(故宮景間房)と呼ばれ、紫禁城、長安街、そして西の彼方に連らなる山脈(やまなみ)を眺めることができる大きな窓をもった豪華な客室となって、客を迎えているのだ。その昔、梅原龍三郎が北京飯店509号室から楽しんだ風景が再現されているのである。「まだ有るともいえる」とは、こうした事情を指しているのだ。

ー北京十景ー

 北京っ子にとってたいへん嬉しいことだが、このあたり、つまり貴賓楼以西の一帯では、建物の高度規制がおこなわれているようで、緑の海原に浮かぶ紫禁城といった梅原龍三郎がこよなく愛した風景が健在、昔のままの姿を残しているのだ。わたしの独断だが、貴賓楼のパレスビュールームからの眺めは北京十景に値いする風景だと思う。いつまでも残っていてもらいたい絶景である


 追記:

 もう30年も前からずっと考えていることだが、北京飯店でもいい、貴賓楼でもいい、その一角に小さな、小さな画廊を設けて、斎白石とか、梅原龍三郎とか、中国と世界の名の知られた画家が描いた北京の絵を収集・展示したらいいなあと思い続けているのだ。

 疑いなく、北京のハイレベルの名所となるだろうし、北京飯店や貴賓楼の国際的な知名度を高め、またその資産の保持にもいくらか役立つかも……。どんなものでしょうか。

 斎白石は北京の野菜や果物、昆虫も描いていますよね、たしか。わたしは大好きです。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』
  • 東眺西望(三)
  • 東眺西望(二)
  • 東眺西望(一)
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