会員登録
• 京劇の役柄

・ 生(男性役)

・ 旦(女性役)

・ 浄(隈取をする役)

・ 丑(滑稽な役)

• 京劇の衣装道具

・ 蟒(もう)

・ 靠(こう)

・ 帔(ひ)

・ 褶(しゅう)

・ 衣(い)

・ 髯口(つけひげ)

• 京劇のメロディー

・ 文(弦楽器と管楽器)

・ 武(打楽器)

• 京劇の隈取

・ 隈取の分類

・ 隈取の色彩

・ 隈取の仕方

京劇の歴史
 京劇は中国の「国粋」と呼ばれ、すでに200年以上の歴史を持つ中国伝統文化の代表的な伝統劇であり、中国人の誇りです。

 現在は「京劇」という名で世界に知られていますが、京劇の誕生以来、沢山の呼び方がありました。例えば、乱弾、簧調、京簧、京二簧、皮簧(皮黄)、二簧(二黄)、大劇、平劇(昔の北京は北平と呼ばれたから)、旧劇、国劇、そして現在の京劇などです。

徽班
 京劇の前身は清代の初め、江南地域で流行っていた「二黄」、「吹腔」、「高拔子」という節回しで芝居をする地方劇団「徽班」です。「徽班」は安徽省の地方劇をする劇団であり、よく全国を巡回して公演していたので、ほかの地方劇と頻繁に接触したことで、互いに特色を吸収したほか、「昆腔劇」や「囉囉腔」などの節回しを取り入れました。清代の乾隆55年(1790年)、役者の高朗亭氏をはじめとする徽班(三慶班)が初めて北京を訪れ、乾隆皇帝80歳の誕生日の祝賀公演を参加しました。これをきっかけに、沢山の徽班が続々と北京にやって来ましたが、そのうち「三慶班」、「四喜班」、「春台班」、「和春班」という4つの徽班が特に注目されました。「和春班」の成立は「三慶班」より30年ほど遅れましたが、現在では当時を評して「四大徽班が上京」と言われています。それぞれの演技上の特色を持っており、「三慶班」は大がかりな劇を得意とし、「四喜班」は昆腔劇、また「春台班」は子役が多く、「和春班」は立ち回りが素晴しかったのです。
二黄
 徽班の主な節回しは「二黄」で、また「昆腔」、「四平調」、「高腔」、「吹腔」、「秦腔」なども兼ね備えていました。このように節回しが極めて豊富である上、「三慶班」の高朗亭氏は他人の長所を上手く吸収し、このまま北京で公演した際には、数多く北京の語彙を取り入れて、徽班の表現力をさらに高めました。この時期、徽班はすでに北京伝統演劇界のトップを占めていました。
楚腔
 道光8年(1828年)、蘇、浙、皖、贛などの地域で流行していた「楚腔」(漢調とも呼ばれる)は、米応先、李六、王洪貴、余三勝(余派老生の創始者余叔岩の祖父)、譚志道(譚派老生の創始者譚鑫培の父親)など当時の名役者たちの上京に伴い、北京の伝統演劇界に入りました。「楚腔」の主な節回しは「西皮」調であり、徽班の「二黄」調と合わせて、1つの舞台で公演し、この共演で、「皮黄劇」がやっと完成しました。この時期、京劇の最初の形態が形成されたということです。

 大まかに言えば、乾隆55年(1790年)の徽班が上京してから嘉慶15年(1810年)までは、徽班はほかの地方劇と混ざり合い、京劇の芽ばえの時期であって、1810年から1845年(道光25年)まで、楚腔が上京して徽班と手を携えて、「皮黄劇」(京腔)が出来上がった時期は京劇の形成期でした。また、1894年までは、京劇が最初の形態から完璧な芸術に至る転換の時期で、沢山の典型的な名役者が現れました。

『同光十三絶』
 清代の画家沈容圃は、当時の人気を呼ぶ名役者13人をもとにして、『同光十三絶』という絵を描きました。

 左から:①郝蘭田―『行路訓子』の康氏、②張勝奎―『一捧雪』の莫成、③梅巧玲(梅派青衣の創始者梅蘭芳の祖父)―『雁門関』の蕭太后、④劉趕三―『探親家』の母親、⑤余紫雲(余派老生の創始者余叔岩の父親)―『彩楼配』の王宝釧、⑥程長庚―『群英会』の魯粛、⑦徐小香-『群英会』の周渝、⑧時小福―『桑園会』の羅敷、⑨楊鳴玉―『思志誠』の閔天亮、⑩盧勝奎―『戦北原』の諸葛亮、⑪朱蓮芬-『玉簪記』の陳妙常、⑫譚鑫培(譚派老生の創始者)―『悪虎村』の黄天覇、⑬楊月楼(武生師匠楊小楼の父親)-『四郎探母』の楊延輝

 彼らは当時の様々な役を代表しており、京劇芸術の創始者たちと言えるでしょう。しかし、『同光十三絶』の中には「浄」の役柄は1人もいませんでした。実は、画家沈容圃が「浄」の隈取を描くことが苦手だったそうです。

唱、念、做、打、舞
 京劇はこのように、唱(歌)、念(セリフ)、做(表現)、打(立ち回り)、舞(踊り)を一体にして、物語の中で人物を描写し、また人間の「喜び、怒り、哀れ、嬉しさ、驚き、怖さ、悲しみ」などの感情を表す総合的な伝統芸術です。
今週の番組
今日熱点
快楽学唱中文歌
特集ダイジェスト
LINKS