【南堂について】
1605年、イタリア人宣教師のマテオ・リッチ(1552~1610)がここで小さな教会を建てたのが始まりで、1650年、ドイツ人宣教師のアダム・シャール(1591~1666年)が清・順治帝の許可を受け、現在の礼拝堂を建てたと言われています。
アクセス:地下鉄2号線「宣武門」駅B出口から徒歩1分
(文:王小燕、写真:Yan、Murata)
■附)北京放送OB李順然さんの語る南堂
順治帝とアダム・シャール 順治帝はたいへんな勉強家でした。北京という中国漢族文化の大殿堂に足を踏み入れた順治帝、すっかりその虜となります。そして「凡そ経学、道徳、経済、典故の諸書を研求淹貫し、古に博く今に通じるべきなり」と述べ、四書五経はじめ、中国の古典から野史、小説などに読みふけりました。 順治帝の知識欲は、漢族の文人たちとの交流だけではなく、北京在住のドイツ人の宣教師で、天文学にも通じたアダム・シャール(1591~1666年)を師と仰ぎ、西洋の科学・文化にも強い関心を示しました。順治帝は、明代にイタリア人の宣教師マテオ・リッチ(1552~1610年)が住んでいた北京西南郊の宣武門に近い一角を、教会を建てる敷地としてシャールに下賜しています。シャールはここに北京最初の西洋建築である天主堂を建て、自分もここに住みました。 順治帝は礼拝堂のほかに天文台や図書室もあったこの天主教会を何回も訪れ、シャールと膝を交えて西洋の文化や科学、さらには人生のことなどを親しく話しあっています。 いまでも、地下鉄環状線の宣武門駅を降りて地上に出ると、この教会の礼拝堂の十字架を目にすることができ、毎朝と日曜日の午前にはここでミサがおこなわれ、賛美歌の調べを聞くことができます。 順治帝は自分の勉強を踏まえて、「文教を興し、経術を崇び、太平を開く」(『清世祖実録』巻90)を国策として打ち出しています。こうして勉強好きとその国策は、息子の康煕帝(1654~1722年)に受け継がれ、『康煕字典』といった名著を生んだといえましょう。清王朝を支えた歴代皇帝の勉強好きのルーツは、どうやら順治帝にあったに違いありません。 (『人民中国』2003年8月号、李順然さん連載コラム「わたしの北京50万年(第20話) ドルゴンと順治帝――清」より) |
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