一九八五年の秋。
北京の秋は素晴らしい。北京の二度目の秋であるが、やはり、この秋もそう思う。大陸性気候であるため、北京の夏は乾燥していてしのぎやすいと言われるが、ここでも夏は、やはり夏で、五月から八月なかばまでは、かなり暑い。それだけに、この暑さのあとに来る秋は、一層、素晴らしく感じられる。北京秋天。天安門広場に立って、十月、秋たけなわの蒼天を仰ぐと、空の色は天に向けていよいよ深く、単に蒼いというより、深い淵をのぞいた時の、底知れぬ無気味な色の蒼に見えるほどだ。この好季節も、日数を数えると、実は、九月末から十一月初めの僅かひと月余りの短い秋であることが分かる。爽やかな風と、高い蒼天の下の秋の好日も、このように冬に向けて足早に駆けてゆく、ひと月余の短い日々であることを思うと、この間にめぐってくる何度かの週末の休日の時間が、殊に、貴重に思われた。その休日が、その日一日だけで終わることなく、しばらくはこのまま続く秋天の毎日であってくれればと、この秋は、殊にそう思いたかった。
こうして足早に移る季節のことは、あえて忘れようとして描いていたが、ある日、顔や指先に、風を冷たいと感じる日があって、この年、休日の外でのスケッチは、これで終わったことを知らされた。
外で描くことのできる季節が、こうして終わったことに気がついて、あらためてこの秋をふり返ると、この年も、前年の秋同様に、やはりこの秋は短かったことが実感としてわいて来る。仕事の都合や、体調が勝れず、描けなかった週末を数えると、一層その感が深くなって、ゆく秋を惜しむことしきりとはなる。しかし、そうはいっても、余暇の余技としては、それなりの収穫もあったと自ら認めることで、なかば満ち足りた気持ちにもなるが、叶うことなら、せめてもうひと月、この秋がながければとの、せんないねがいも言えてくる。この秋は、私にとって二度目の秋だから、このように短いことは予期していた。このため、この秋の週末はかなり熱心に描いたので、体のどこかにいくぶん疲れも感じ始めているように思えて、やはり、この秋はこれで終わって良いのだと、自分に言いきかせて納得する。
以上、中尾太郎さんのエッセイとスケッチを無断で借用させていただきました。30年も昔、同じ北京の胡同を歩きまわっていた。同い年1933年生まれの北京を愛する中国人と日本人の誼みで無礼をお許しください。多謝!
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