ロンドン大会の前年、つまり1947年6月、IOC・国際五輪組織委員会は、1952年大会の開催地について検討を行った。前回大会の誘致に動いたのがロンドンだけであったのと違い、ヘルシンキ(フィンランド)、アムステルダム(おランド)、アテネ(ギリシア)などの9都市が手を挙げ、会議期間中、各都市の市長が率いる招致代表団が誘致活動に駆けつけるなど、盛り上がった雰囲気で進んだ。何度か投票を繰り返した結果、フィンランドのヘルシンキが開催権を得た。
フィンランドは、人口も多くなければ、国土も広くないが、スポーツが広く普及した国で、夏季・冬季五輪でも好成績を残し、オリンピックへの貢献が大きい国の一つでもある。また首都ヘルシンキは、有数の港湾都市で、交通に便利であった。
大会は、7月19日から8月3日まで行われた。69の国と地域から4925人(女子が518人)が参加。旧ソ連、ガーナ、イスラエル、ナイジェリア、タイ、ベトナムなど13の国・地域が初めて選手を派遣。出場人数は旧ソ連が295人で最も多く、次いでアメリカ286人、開催国フィンランドの260人。
今大会には17競技の148種目が設けられた。「近代5種」を新たに組み入れ、新体操を外した。
今大会は、各競技の記録面で収穫があった大会だと言えよう。重量上げの5種目、射撃の2種目、水泳の1種目で、世界記録が出た。また陸上では、男子の全24種目のうち21種目で、記録更新或いは五輪タイ記録が出た。また女子の全9種目のうち8種目で世界記録が破られた。種目によっては、記録更新は1回だけでなく、数回にわたって更新された。例えば、女子砲丸投げでは21回、男子3000M障害では16回、男子ハンマー投げでは13回世界記録が更新されたのである。これは、戦争の影響が少しずつ消え、世界のスポーツレベルが向上してきたことの証だ。
中国はその頃、新中国成立後間もないときであった。当時の中華全国体育協力促進会は、「中華全国体育総会」と改名し、中国五輪組織委員会としての権利を受け継いだ。しかし、大会前、それはまだ国際五輪組織委員会の承認を受けていなかった。このままではオリンピックには出場できない。中華人民共和国と外交関係を樹立したフィンランドなどの斡旋で、ようやく参加資格を獲得。選手団一行40人がヘルシンキに到着したのは、大会10日目を過ぎたころだった。中国選手団は、水泳1種目と閉幕式にしか参加できなかった。しかし、この大会で"遅刻"してしまった中国こそ、その後、世界の「スポーツ強国」に成長していくのである。
今大会、アメリカが金メダル40個で、金メダル数はトップ。ただ 旧ソ連もアメリカに迫るメダル数を獲得した。これ以後、米・ソの『2強時代』が始まる。
開催期間中、天候が悪く、寒さと風雨に見舞われたものの、全体的には成功した高いレベルの大会だと言える。まず、大会の雰囲気がよく、幅広い層の人が参加し、数万人の市民などが応援に訪れた。審判員のジャッジは厳格で、客観的かつ公正な判断で好評を得た。さらに一連の好成績が出て、オリンピックの歴史に残った。しかし、第2次世界大戦後の政治情勢の混迷、そして参加者数の急増はこのあとオリンピックが直面する新たな課題となった。
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