1923年IOC・国際五輪委員会のローマ会議で、第10回大会の開催地をアメリカのロサンゼルスに決定。それを受けて、現地では10万5千人収容のメインスタジアムと1万2千人収容の総合体育館をはじめ、大会施設の建設がスタートした。これらは1930年ごろまでにほぼ完成。さらに、競技場近くには、男子選手のために、700棟の木造小屋を建設した。これがいわゆる選手村の始まりである。今大会以後、『オリンピック憲章』で、主催国は選手村を建設しなければならないとの規定が出来た。
ロサンゼルス大会は、7月30日から8月14日にかけて開催。37ヶ国・地域から1408人(女子127人)が参加した。ヨーロッパ全体が不景気であったのに加え、ロサンゼルスがアメリカの西海岸に位置し、渡航に時間がかかることも手伝って、参加者数は前回アムステルダム大会の半分にも至らなかった。
この大会、中国が初めて選手を派遣。また南米のコロンビアも初参加した。
大会では14競技117種目が設けられ、90の五輪記録、18の世界記録が出た。アメリカが金41個で、総メダル数1位。イタリア、フランスがそれに次いだ。
ただ水泳では異変が起きた。強豪アメリカが、母国で五輪参加史上での最大の惨敗に終わったのである。それに代わって台頭したのが日本。先進的なトレーニング方法によって、男子の6種目全てでメダルを獲得し、金5、銀4の成績をおさめた。
中国は、選手1人を含め、6人からなる代表団を派遣。初めての"正式派遣"となった劉長春選手は、陸上の100M、200Mに出場した。一回戦で5位、6位といずれも敗退したが、中国選手による五輪正式参加の第一歩を踏み出した。
この大会は参加国、出場者数ともに少なかったが、五輪史上におけるいくつかの先例を作り上げた。施設面では大型スタジアム、選手村の建設など。また、表彰式の際、これまで最も順位の高い選手が最下段でメダルを受け取っていたのを改め、チャンピオンを最上段に乗せた。そして、ゴール地点での撮影設備も20年ぶりに場内に置かれた。
1900年フランス大会から1928年アムステルダム大会まで、開催期間の最も短い大会が79日間。しかし、今大会は、わずか16日しかなく、賑やかで、かつスケジュールが凝縮された大会となった。それ以後の大会も15日間から18日間で開催されるようになる。
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