1928年の第9回大会の招致に動いたのは、オランダのアムステルダムのみであった。したがって、自動的に開催地となる。アムステルダムは、オランドの首都で、世界第2の規模の港を有する交通の要所。
それに先立ち、1925年には、30年間IOC国際委員会の会長を務めた『現代五輪の父』、グーベルダン氏が勇退した。後任にはベルギーのアンリ・バイエ・ラトゥール氏を選出。
46ケ国から3014人(女子290)の選手が今大会に参加。最多がアメリカの249人。続いて主催国オランダが246人。フランスが234人。マルタ、バナマが、初めて選手を派遣。ドイツが16年ぶりに、オリンピックに復帰、223人の選手を派遣した。
今大会は14競技の109種目が設けられる。特筆すべきは、今回初めて女子選手の参加が正式に許されたことだろう。290人の女子選手が、スプリント100M、800M、高飛び、円盤投げ、4×100Mリレーに出場した。
大会前に、聖火リレーが行われた。火種はギリシアのオリンピアで、集光レンズを利用して採取。ギリシア、ユーゴスラビア、オーストリア、ドイツ4ヶ国を経て、メインスタジアムに伝えられた。場内には高い聖火台が設けられ、聖火が閉幕まで燃え続けた。聖火リレーの実施は今大会が初めてだったが、IOCの正式な認可は、1934年のIOC会議まで待たなければならない。したがって、公式には、オリンピック聖火の始まりは1936年ベルリン大会ということになる。
開幕式の選手入場では、発祥の地、ギリシアが先頭で入場した。他の国は、ローマ字順で入場。そしてホスト国が最後にスタジアムに入る。この方式は現在まで継承されている。
8月2日の三段跳びでは日本の織田干雄選手が、15.21Mで優勝、アジアで初めての金メダルに輝いた。陸上女子800Mでは、同じく日本人選手の人見絹枝選手が出場。5月20日大阪で女子幅跳びの世界新記録(5.90M)を出したばかり。結局、2位に終わったが、アジアの女子最初のメダリストとなった。
200Mバタフライでは日本の鶴田義行選手が、強豪を抑え、日本人初めての水泳金メダルを獲得。これをきっかけに、日本の水泳陣の全盛期が始まる。
一方、中国のオリンピック史もここから始まる。中国体育協会は、アメリカのプリンストン大学に留学している宋如海を視察のため大会に派遣。これが中国の正式参加の始まりである。
獲得総メダル数は、アメリカが金22個、銀18個、銅16個で、ランキング1位。一方、今大会は金メダルを獲得した国が28にのぼった。この記録は、以後40年間、破られなかった。
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