第四回大会の招致に動いた都市は、イタリアのローマ、ミラン、ドイツのベルリン、イギリスのロンドンの四都市。そしてIOC(国際五輪委員会)での投票によりイタリアのローマに決定した。しかし、ベズビオ火山の噴火と度重なる地震で、イタリアの各都市が大きな被害を受け、イタリア経済も麻痺状態に陥ったため、1906年のIOC会議で、ローマ市政府は、主催権の放棄を表明。ただしオリンピックの延期は許されないため、IOCはロンドンに助けを求めた。考慮の結果、ロンドン市政府は、第四回大会の開催を承諾。その後、きわめて短期間にロンドン郊外に7万人収容のスタジアム、コース長100Mのプール、そして自転車競技場を完成させ、開催に間に合わせた。
22ヶ国2035人の選手(女子選手36名)が今大会に参加。この数は、これまで3回のオリンピックの参加者総数より多い。主催国イギリスの選手がもっとも多く710人。ついで、フランスが220人、次いでスウェーデンが156人だった。アイスランド、ニュージーランド、ロシア、トルコ、フィンランドなども初めて選手を派遣した。1900パリ大会はアフリカ選手がゼロ。1904年セントルイス大会ではアジア選手が出場しなかったのに対し、1908年ロンドン大会では5大陸の選手が初めてそろい踏み。オリンピックの国際化に向け、一里塚的な歴史的意義を持つ大会である。
陸上では、16種目で大会記録、5種目で世界記録が更新された。そして、フィギュアスケートが初めて行われた。また初めて人工スケート場が使用されたのもこの大会である。
マラソンには、16ヶ国56人が参加。ここでオリンピック史に残る名場面が展開される。このとき、最初にゴール地点のスタジアムに入ってきたのはイタリアの飴商人トラト・ピトリ。しかし、疲労が極限に達していたピトリは、いったん方向を間違え、その後、何度も転倒。それでも必死に立ち上がってレースを続けるが、ゴールまであと15mというところで倒れこみ、立ち上がることができなくなった。二人の医師の助けを受けて、なんとかゴールしたものの失格となった。だが、ピトリの最後まであきらめない不屈の精神は多くのスポーツファンの感動を呼び、彼の走りは、記録には残らなかったものの、永遠に「記憶」に残ることになった。
7月9日、この日は競技が行われない日曜日。皆がロンドンのサンパウロ教会に集まり礼拝をした。ペンシルベニア法王は、ピトリの走りを取り上げ、「オリンピックは優勝より参加することがもっと大事である」と語った。そこにいた「オリンピックの父」グーベルタンは、それを引用して、「オリンピックで最も大切なのは優勝ではなく、参加することだ。人生で最も大切なのは、成功ではなく闘争。征服ではなく、努力だ」と語った。ここに「参加することに意義がある」の名言が誕生したのである。
アーチェリーでは、イギリスの兄の威廉 多?と妹の夏洛特 多?がそれぞれ金メダルを獲得、初めて、兄妹での金メダリストとなった。
射撃では、スウェーデンのオスカ・スワエンが60歳で、チャンピオンに輝き、最高齢の金メダリストとして名を残した。
今大会ではいくつかの点で、以後のオリンピックの発展に貢献したといえる。まず初めて金メダルランキング発表したこと。メダルの形式が決められ、長径60センチ、表にはIOC規定のデザイン、裏は主催国自らがデザインすることに決定。また個人種目には各国最多で12人が出場できること、長さの単位はメーター制を採用することなどである。
ロンドン大会は、これまでの「万博の付属品」というイメージを抜け出し、"世界最大にして最高のスポーツイベント"としての基礎を築いた大会であったといえるだろう。
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