1914年、パリで開かれたIOC(国際五輪委員会)総会では、いくつかの重要事項が決められた。
一、 五輪旗とロゴ・マークが決定
二、フランス語、英語、ドイツ語がIOCの公用語に決定
二、 IOCと各国の組織委員会の相互協力(これはオリンピックの発展に歴史的な意義を持つ)
そしてIOCは第六回大会の開催地をドイツのベルリンに決めた。しかし、まもなく勃発した第一次世界大戦で、ベルリン五輪は幻の大会となってしまう。。
1918年、戦争が沈静化する。この年、パリで開かれたIOC総会で、第7回大会の開催地としてベルギーのアントワープを選んだ。
アントワープは、北ヨーロッパの貿易の中心地であり、海上輸送の要として大きな港湾を持つ。
ベルギー五輪組織委員会はこの大会にドイツを招待しなかった。前回のオリンピック開催を戦争により開催できなかったことへの戒めである。しかし、ベルギー組織委員会はあるミスを犯した。成立したばかりのソビエト連邦を招待しなかったことだ。
29ヶ国2669人(女子選手78人)が今大会に参加。主催国ベルギーの選手が最も多く332人。次がフランスの292人、次いでアメリカが282人だった。
今大会は16年ぶりに重量あげが正式種目に復帰。またフィギュアスケート、アイスホッケーなどが同時に行われる最後の夏季大会となった。
今回の開幕式では、グーベルタンが1913年デザインしたIOC旗が初めて掲げられる。IOC旗掲揚の後、平和を象徴するハトを飛ばしたが、これも初めてのことだ。また初めて選手宣誓が行われたのも今大会が最初である。
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