1894年6月のパリ国際スポーツ会議の席上、「現代オリンピックの父」と呼ばれるフランスのグーベルタンは第一回オリンピックを1900年、フランス・パリで世界博覧会と同時開催することを提案したが、これは否決された。しかし、その後、グーベルタンがオリンピックを復活させた功績を称えるため、第2回大会が彼の言うとおり、1900年、世界博覧会とともにパリで開催される。
セーヌ川が流れる世界の名城パリは水、陸交通が四方八方に通じる交通の要所。そもそも国際大会の開催にふさわしい場所であった。
しかし、実はフランス政府はあまりオリンピックに関心を示さず、どちらかといえば、同時開催された博覧会に重点が注がれていた。そのため大会スケジュールは極めて怠惰で、開催期間は5ケ月以上に及んだという。フェンシングが6月、陸上、体操が7月、水泳、ヨットが8月、自転車が9月・・別名「マラソン五輪」とも呼ばれる原因である。スタジアムも現在のように一都市に大部分を集中させるわけではなく、博覧会の展示に対応して、16地域に散らばっていた。例えば、フェンシングは刀剣製造区に、ボート・レースは人命救助設備展覧区にという具合である。つまりこの当時、オリンピックは、博覧会の一部に過ぎず、観客を呼び寄せるためのショーでしかなかった。出場選手たちの意識も希薄で、中には一生涯、自分がオリンピックに出場したとは知らなかった選手もいたそうだ。
フランス政府は決して熱心ではなかったが、パリには、その賑やかな町並みと美しい風景に魅かれて数多くの人々が訪れた。参加国は24。出場選手は1225人に上り、前回大会より大幅に増加した。開催地フランスの選手が最多の884人。続いて、イギリスが103人、次いでアメリカが74人だった。ベルギー、ハイチ、スペイン、イタリア、カナダ、キューバ、オランダ、ノルウェー、インドなども初めて選手を派遣した。そして特筆すべきは、19人の女子選手が参加したことだ。古代五輪、そして第1回大会まで続いていた女子の出場選手ゼロに終止符が打たれた。ただ今大会の女子出場はIOCの正式承認は受けていない。これが認められるのは1924年の第8回パリオリンピックまで待たねばならない。
古代五輪には個人種目しかなかったが、第2回現代五輪からは、サッカーが競技に組み込まれた。参加国はイギリス、フランス、ベルギーとわずか3カ国だったが、初めての国際戦として、サッカー史に残る大きな飛躍の一歩には違いなかった。
「スポーツ王国」アメリカが陸上の24種目で、17個の金メダルを獲得、貫禄を見せた。アメリカのコロンズラインが、幅跳び、60Mスプリント、110Mハードル、200Mハードルで金メダル。一大会で4個のメダルを獲得した初めての選手となる。
イギリス留学していたインド人、プリチャトが200Mで銀メダルを取り、アジアからの初の五輪出場、そして初めて表彰台に上がった選手として歴史に名を残した。
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