当初、IOC(国際五輪委員会)は、第5回大会をドイツ・ベルリンでの開催と決定したが、開催3年前にドイツの組織委員会会長が死去したため、開催権を放棄。そこで開催に熱意を示していたスウェーデンの首都ストックホルムが1912年オリンピックを引き受けた。
ストックホルム大会でメイン会場として使われた「ケロレブスタジアム」は、収容人員こそ37000人とそれほど多くないものの、当時としては先進的な設備が完備された競技場。コース全長は380.83メートルと現在の長さに近い。また試験的に電動タイム計測器やゴール地点の撮影設備が導入された。タイムは10分の1秒まで計測可能となった。
1912年7月6日、盛大な開幕式が執り行われた。大規模な開幕式が行われたのはこの大会が初めてであり、現代五輪のモデルケースのひとつとなった。
28ヶ国2547人の選手(女子選手57人)が今大会に参加。主催国スウェーデンの選手がもっとも多く482人。ついで、イギリスが293人、そしてノルウェーが207人だった。エジプト、ルクセンブルク、ポルトガル、シリア、そして日本が初めて選手を派遣したのがこの大会である。参加国数と選手数はいずれも過去最多となった。
前回のロンドン大会で、アメリカは、初めて100Mと200Mの金メダルを逃した。王者奪還に燃えるアメリカ選手団は、船で太平洋を渡っている最中も木製のレーンをひいて、練習を繰り返した。その甲斐あって、大学生のクライグが、100Mと200Mの金メダルを獲得し、悲願を果たした。
今大会、もっとも注目を集めたのはアメリカの"天才"アスリート、ジム・ソープだろう。彼は最も過酷と言われた五種競技、十種競技で、2位に大差をつけて、2個の金メダルを取った。彼に金メダルを贈る際、スウェーデン国王は、彼を評して「わが時代の最も偉大なる選手だ」という最大の賞賛を送った。しかし、その後の彼の人生は決して幸福なものではなかった。半年後、あるスキャンダルが彼を襲った。以前、野球のマイナーリーグでプレーしたことが発覚し、『実はプロ選手であった』として、オリンピックへの出場資格そのものがなかったとする疑惑であった。そのため金メダルも没収。その後、大リーグ、NFLなどに所属したこともあったが、引退後は肉体労働に携わったり、飲食店を経営したりして、不遇な人生を送った。1953年、ジム・ソープは、憂鬱、憤り、貧困のなかで、この世を去った。最後に残した言葉は、「金メダルを返してください」。
ジム・ソープの死後、30年がたった1983年1月、多くの支援者の努力によって、名誉回復がなされた。当時の五輪委員会のサマランチ会長は、自らロサンゼルスに赴き、ジム・ソープのものであったはずの金メダルを彼の遺族に手渡した。オリンピックが生んだ最大の悲劇の一つである。
今大会ではグーベルダンの提案で、射撃、水泳、フェンシング、馬術、クロスカントリーを含めた「現代5種目」が初めて行われた。スウェーデンの選手が上位を独占。唯一、5位に入ったアメリカのジョージ・スミス・パットンは、メダルとは無縁だったが、彼こそが第二次世界大戦で輝かしい功績を挙げた「四つ星大将」、パットン・ジェネラルだ。
今大会、アメリカは金25、銀19、銅19で獲得メダル数1位。主催国のスウェーデンが金24、銀24、銅17で2位。ついで、イギリスは金10、銀15、銅16で3位となった。
7月17日、盛大な閉幕式が行われた。ここで行われたメダル授与式では国王自らが、金メダルをアスリートたちの首にかけた。そして皇太后は銀メダルを、親王が銅メダルをそれぞれ直接、授与して選手たちの健闘を称えた。
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