ジャッキー・チェンが彼と交わした約束が実現するまでの6年間で、澤田さんは単身アメリカに渡った。
あの日の出会いから、澤田さんの目は日本国内ではなく海外に向いていたのだ。
プロダクションに所属しなければオーディションを受ける資格すら与えられることの無いというアメリカで、澤田さんは独自の方法でその門を開いた。
「プロデューサーのオフィス調べて、ピンポンしに行ったんだよ」。
そう言う澤田さんは、目を細めて当時の若きエネルギーを懐かしんでいるようだった。
「そこからだよ。その延長で今、俺はここに居るんだ」。
オフィスの受付に2週間通ったそうだが、当然当時は大して英語も話せなかった澤田さんが、プロデューサーに会えることは無かった。
「そんな甘くない」。
そう、名も無い役者は外国で数秒の出演枠を勝ち取ることすら容易なことではないのだ。
その後一旦オフィス通いをあきらめたものの、自分の存在を知らせることをあきらめたわけではなかった。
プロモーションビデオを作成して、キャスティングディレクターに送りつけた。
「見てもらう前にあきらめるわけにいかない」そう思っていたと言う。
そして澤田さんはハリウッドでわずかな出演枠を手に入れるのだが、澤田さんが当時求めていた世界はハリウッドには無かった。
茫々とした気持ちを抱えて帰国すると、初めての出会いから連絡を取り続けてきたジャッキー・チェンから「スーツを着て来い」と仙台に呼び出された。どんな正式な場なのだろうかと首をかしげながらも、すぐに仙台に向かった。
「アナタは、2週間いくらですか?」
ジャッキー・チェンに連れられて行った先に居たのは、とある映画のプロデューサー。そしてそのプロデューサーは、澤田さんをひと目見るなり唐突にそう聞いた。その場で澤田さんを撮影中の香港映画に採用したのだ。やくざ役だ。着の身着のまま、2ヶ月に渡るアクションシーンの撮影に挑んだ。2週間などではない。2ヶ月だ。それも、仙台に居たのはわずかの期間で、その後撮影はロサンゼルス、香港と場所を移した。
身体はボロボロだった。
しかし、その2ヶ月が澤田さんの風変わりな役者人生の軸となった。
ジャッキー・チェンのアクションシーンの相手役として香港映画デビューした澤田さん。
この映画をきっかけに、香港映画のアクションシーンでは彼が必要不可欠な存在となったのだ。
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