【日本語放送80周年~その時その人】陳真さん

2021-12-06 18:58  CRI

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 2021年12月3日は中国共産党が率いる中国人民対外放送開始80周年です。その第一声は日本語放送でした。これまでの80年、どのような人たちがどのような思いで放送に携わってきたのでしょうか。シリーズでお伝えしてまいります。

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2001年 中国国際放送局のスタジオでインタビューを受ける陳真さん

③中国語講座が紡いだ心の絆

 1973年2月19日、月曜日。この日、北京放送の電波から久しぶりに中国語講座が聞こえてきました。番組タイトルは「初級中国語講座」。番組では個人名は出さない時代だったため、講師が名乗ることはなく、オープニングの「ピンイン字母歌」が終わって簡単な挨拶の後、すぐに授業が始まりました。その講師は女性で、澄んだ声の持ち主。流暢で上品な日本語を使っていました。

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陳真さんが講師を務める中国語初級講座のオープニングに使われた「ピンインの歌」

 講師の名は陳真さん。その日から陳さんは18年間、北京放送の中国語講座で講師を務めました。のちに、放送局からの派遣でNHKのテレビ中国語講座を担当した10年も加わり、「中国語講座の陳真先生」の名が日本の中国語学習者に知れ渡り、「陳真先生の中国語講座」は北京放送の代名詞のような存在になりました。


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1960年代初めの北京放送日本語組・前列中央が陳真さん

 北京放送中国語講座の歴史は陳文彬・陳真親子と深い縁があります。文彬さんは台湾出身の言語学者で、法政大学で学び、卒業後は母校の教師になりました。次女の蕙貞さんは1933年東京生まれ。音楽が好きで、13歳で長編小説を書きあげたほどの多情多感な文学少女でした。1949年8月末、一足先に中国大陸に入った父親の後を追いかけ、蕙貞さんは母、姉と一緒に北平(1949年9月27日から再び「北京」へ名を変える)に入り、その3日後に北京放送に入局しました。それ以降、蕙貞さんは「陳真」へと名前を変え、生涯を「陳真」の名で通しました。

 1962年、日本との民間交流が盛んになってきたのを受け、北京放送の番組に初めて中国語講座が設けられました。局長・廖承志さん直々の手配で、当時、文字改革を担当していた陳文彬が講師を務めていました。番組は反響が良かったものの、「文革」によってわずか4年で打ち切られてしまいました。一方、1970年頃になると、日本の訪中団から「中国語を習って中国人と仲良くなりたい日本人が大勢いる。番組でぜひ中国語講座を復活してほしい」というリクエストが相次ぎました。

 1972年9月29日、北京の人民大会堂で中国と日本は関係正常化に向けた共同声明に署名し、両国関係の新たな一ページが開かれました。その年の暮れ、時の周恩来総理は日本からの代表団と面談する中で、「中国語講座を再開してほしい」という要望を知り、北京放送に再開の計画を早急に立てるよう指示しました。

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1970年代、中央人民放送局の中国アナウンサーによる模範朗読の収録に立ち会う陳真さん

 指示を受けた放送局は直ちに準備に取り掛かり、陳文彬さんが講師を務めていた4年間、ずっと口述筆記を担当していた曽アナウンサーを中心に、数人のスタッフが準備を進め、再開の目途もたちました。

 ところが、曾アナは番組再開を一か月後にひかえる中、病気で倒れ、入院してしまいました。ピンチヒッターとして白羽の矢が立ったのが陳真さんでした。陳真さんはその2年前から、休日になると、父親の親友で、中国語の発音表記体系「ピンイン」の創設に大きく貢献した言語学者・周有光先生に、言語学や修辞学の手ほどきを受けていたことが上司の耳に入っていたからです。

 中国語講座が再開した後、たちまち日本からたくさんの手紙が届き、陳真さんの鈴を転がすような美声、上品な日本語、豊富多彩な音源を取り入れた番組構成が多くの聴取者の心を虜にしました。

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1970年代、日本から届いたお便りを同僚と一緒に整理する陳真さん

 陳真さんは中国で内戦がまだ終わらない中、命の危険を冒しながら日本から2年かけて祖国に帰国。16歳の入局から2005年1月に71歳でなくなるまで、半世紀あまりにわたって日本語放送と人生をともにしてきました。

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若き頃の陳真さ

 長い放送人生の原点はどこだったのか。日本語放送開局60周年の2001年に、陳真さんは北京の自宅で後輩記者のインタビューを受けていました。過去半世紀の歩みを振り返り、一番心に残ったことは「人民の国が成立した日のことで、天安門広場で新中国の誕生を見届けた時でした」と次のように振り返りました。

 陳真さん(2001年の音声):

 「人民の国が生まれたのだ。これからはもう世界のどこに行っても誰にも馬鹿にされないで、堂々と胸を張って生きていける。これから、中国はどんどんよくなって素晴らしい国になる。この素晴らしい国にしていくのが私達の使命であり、新しい中国の変わっていく姿を日本の皆さんにお伝えしていくのが、私たちの仕事だと思いました。この52年間に様々なことがありました。正直言って、つらい思いをしたこともあります。そのたびに、私は人民の中国が誕生した日の思い出を、その日の感動を思い起こしました。そうしますと、体の底から力と勇気が湧いてくるような気がするんです」

 「人民の国」の誕生に涙ぐんだ陳真さんには幼少期、日本で味わった屈辱的な体験がありました。2000年、陳真さんはNHKラジオ深夜便に出演した際、父方の祖父が日本軍のひどい拷問を受けて無残に死んだこと、小学校三年の時、軍隊出身の受け持ちの先生から「チャンコロ」と呼ばれ、それに抗議したところ、いきなり力強く頬を打たれて、その後不登校になったことなど、めったに口にしないことを語りました。しかし、その一方で、父には日本人の親友がたくさんいたこと、詩人の谷川俊太郎さんとは幼馴染で、子どもの時から優しく接してもらい、今も連絡をとりあっていること、戦争は国籍が関係なく、一般の民衆に等しく被害をもたらしていることなどを語りかけ、両国の人々は憎みあうのでなく、仲よく付き合うべきだと呼びかけました。

 陳真さんの中国語講座を聞いて、中国ファンになったリスナーは数多くいます。中にはタクシーを運転しながら中国語講座を聞いていた名古屋のドライバーは、陳真さんの訪日を知ると、わざわざホテルまで送迎しに行ったなどといった暖かいエピソードが、陳真さんの自伝『柳絮降る北京より』に書き記されています。

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2004年1月、新年特番「紅白歌比べ知恵比べ」発表会に出席し同僚を記念写真に写る陳真さん(右)

 陳真さんはまた、どんなに困難な中でも他人のことを先に考えるという暖かい人間性と不思議な魅力があり、日本に多くの友人がいました。

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陳真さんの著書の一部

 「中国語講座」をはじめ、北京放送と共に歩んできた人生について、陳真さんは2001年の取材で次のように振り返っています。

 「言葉というのは人間の心と心を結ぶ絆だと思います。中国語講座の番組は言葉を教えるだけではなく、言葉の勉強を通して、中国のことを日本の方に知ってもらい、そして、中国と日本の人達の心の絆を強めていくために作った番組だと思うんです。ほかの番組にくらべると、たいへん地味な存在ですが、私の仕事を通して、中国の人たちと日本の人たちの魂の触れ合いに少しでも役に立つことができれば、それが私の生きがいだと思います。日本向けの放送という仕事に、自分の力を尽くすことができたことを本当に心から嬉しく思っています」

 2004年秋、陳真さんは胃がんの転移により急に容態が悪化しました。それでも、NHKテレビ中国語講座のテキストの連載締切を守り、郵送してから入院しました。

 精神科医、ノンフィクション作家の野田正彰さんは、陳真さんが入院していた間に、『陳真~戦争と平和の旅路』を書き上げ、原稿を病床にまで届けました。陳真さんの波乱に満ちた人生をリアルに記録した作品です。興味のある方は、ぜひ一読をお勧めします。

(記事:王小燕、校正:星和明)

参考書目:

【日本語放送80周年~その時その人】陳真さん_fororder_ryujyo 【日本語放送80周年~その時その人】陳真さん_fororder_iwanami

陳真『柳絮降る北京より――マイクとともに歩んだ半世紀』(東方書店、2001年1月)

野田正彰『陳真~戦争と平和の旅路』 (岩波書店 2004年12月)

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 この企画をお聞きになり、お読みになってのご意見やご感想、または80周年に寄せた思いやメッセージをぜひお寄せください。メールアドレスはnihao2180@cri.com.cn、お手紙は【郵便番号100040 中国北京市石景山路甲16号中国国際放送局日本語部】までにお願いいたします。皆さんからのメールやお便りをお待ちしております。

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10月29日放送分
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