「万国建築博物館」とよばれる天津の街
天津一帯は、古くから栄えていました。7世紀、隋の時代には、華北地方と江南地方を結ぶ大運河がつくられましたが、南方から北方へ、米などの食糧を運搬するための要衝として、この一帯が重要な役割を担っていたのです。
清の時代になると、天津は北方を代表する商業都市へと成長していきます。南方の上海に次ぐほどの勢いだったようです。
天津の転換期となるのが、1858年の第2次アヘン戦争でした。戦争の結果、中国は外国に門戸を開放し、首都に近く良い港を持つ天津の街が通商の窓口とされました。
これをきっかけに、天津には、イギリスやフランスなど8ヶ国の租界が置かれ、海外の文化が流入するようになりました。また、租界には、それぞれの国の建築様式に沿った建造物が建てられました。
いまでも、天津の街には、当時の面影を残す古い洋館が多く残されています。風格や大きさが異なる様々な国の洋館が建ち並んでいるので、「万国建築博物館」と呼ばることもあるそうです。ロマンチックな色彩のゴシック建築もあれば、バロック建築やロココ建築などもあります。
市内を流れる海河という川沿いや、金融街である解放路などに行けば、こうした洋館を多く見ることができます。中には、今でも銀行やホテルなどとして利用されているものや、市民が住宅として利用しているものもあります。
いまではこうした古い洋館が、天津の重要な観光資源となっていて、写真を撮って巡る観光客もいます。「秦や漢の時代を見たいなら西安、明や清の時代を見たいなら北京、近代を見たいなら天津へ行け」という言葉もあるようです。天津は、近代の歴史に触れることのできる街でもあります。
天津の新しい顔「天津経済技術開発区」
海の窓口として古くから発展し、歴史を刻んできた天津。実はいま、もうひとつの転換期を迎えようとしています。
天津市街の東南部にある「天津経済技術開発区」が目覚しい発展を遂げ、将来、華北地方における経済の中心になるだろうと注目を集めています。今年6月には、温家宝首相も視察に訪れ、太鼓判を押しました。
「経済技術開発区」とは、外国から積極的に資本技術を導入して国の近代化をはかろうと、1984年から全国各地に作られている経済区域です。優遇税制を敷いていることなどもあり、国内外の多くの企業が各開発区に進出しています。
天津の開発区は、敷地面積が33平方キロメートル。各企業の工場やオフィスなどがあるのはもちろん、レストラン、スーパーマーケット、役所、銀行、ホテル、マンション、さらには図書館、植物園、学校、公園などもあり、「ひとつの街」というかんじです。
交通網も整備されていて、開発区へ行くため のバスや列車も出ています。高速列車をつかえば、天津市内から開発特区までは約30分で行くことができます。
天津はもともと、開発特区になりうる要素を持っていました。まず、古くからの港町で、華北地方における水上交通の拠点であったこと。そして、天津のそばに広がる渤海湾は、塩、石油、天然ガス、地熱などの豊かな資源に恵まれていたこと。
しかし、天津の海にはもともと多くの塩田があり、そこを工業用の環境に変えていくには大きな苦労があったようです。しかし今では、新しい港をはじめとする設備も整い、軌道に乗ってきました。
海外企業も多く進出しており、開発区ではトヨタをはじめとする日本企業の看板も多く見かけます。
また、開発特区を訪れる観光客も増えています。「天津のニュースポット」ということで、見学がてら遊びに来るのです。開発特区の中には、新鮮な海鮮料理が食べられるレストランや、カフェ、バーなどもありますから、週末になると多くの人でにぎわうそうです。開発区の見学ツアーもあります。
天津に行くときは、開発区まで足をのばしてみてはいかがでしょうか?きっと、新しい天津の表情を目にすることができると思います。
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