それから数週間。
澤田さんは、日本から招聘された他の役者やエキストラとして参加した日本人留学生と共に、ロケ地を訪れていた。
土の壁が並び、ひまわり畑がひろがる田舎の小さな村だった。
撮影は順調とは言い難く、実に緩やかに、しかしながら一毫の妥協も無く進められた。
現在では巨匠と謳われ、当時中国映画界の異端児との異名もあった姜文監督の頭に描かれた世界を具現化するのは、そう容易ではないのだ。
当初、映画の現場に慣れない若者たちは、よく口にしたものだ。
「疲れた」、「体が痛い」、「つらい」と。
実際、海外の過酷な現場を多々目の当たりにしてきた澤田さんでさえ、「きびしいな」そう思ったそうだ。
しかしある時から彼らは、一切の不満を口にしなくなった。
澤田さんの一言を聞いてからだ。
「言葉にすれば解消されるなら、俺だってそう言うよ」。
田舎の小さな村から、ロケ地はダムを船で進んだ先にあるセットに移された。
ある日のことだった。
日本人の役者と留学生の一部、少数の中国人スタッフが嵐の夜、その孤島とも言えるセットに取り残されてしまったのだ。
というより、嵐のため第二陣以降の船がセットにたどり着けず、引き返してしまったのだ。
第一陣で出発した20数名のみが嵐を掻い潜って、セットのある岸にたどり着いた。
しかしそこは、姜文監督がこの映画の撮影のためだけに用意したセットだった。
電気など通っているはずもなければ、船以外で他の場所に移動することもできなかった。もちろん食べ物や飲み物もない。
そして不運なことに、照明スタッフは第二陣で到着する予定だったため、発電は不可能。
セットの中でも比較的広い民家に避難しつつ、共に残された中国人スタッフから差し入れられたロウソクを灯りに、小道具の敗れた綿の布団、緑色の人民コートなどで暖を取った。
「まあ、騒いでもしかたないからな」。
と、澤田さんは留学生たちと共に、嵐がその民家を揺らす音を聴きながら一夜を過ごした。
この状況に不安を隠せなかった若者たちは、破れた布団に身を包みつつ、目前に広がる不可思議なシチュエーションを楽しんですらいるかのように見える澤田さんの姿を見て、一様に落ち着きを取り戻した。そしてぽつぽつと、自分たちの故郷の話を始めた。
嵐はすぐに止むとも、数日続くとも限らない。
状況がある程度見えてくるまでは、体力の温存が第一だ。
俳優・澤田拳也とは、そういう人間なのだ。
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