河西回廊の西部に位置する敦煌は、古代よりシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市で、仏教はインドからこの地を経て中国に伝えられました。1900年、世界的に有名な敦煌文献が出土し、世間を驚かせました。敦煌文化は中国西北部に暮らす様々な民族の文化が融合したものであり、その中心には中原の漢文化における儒家思想と道家思想がもととなっていて、西域の近隣民族、中央アジア各国や、インド、ペルシアの言語、文学、宗教、哲学、芸術の優れた要素を、大胆に吸収して融合し、さらには遙か遠くのギリシア、ローマ文化の影響をも受けています。まさにこの文化の中心となるのが莫高窟です。莫高窟は敦煌の東南25キロのところにあり、「敦煌石窟」とも言われます。鳴沙山の東に向いた断崖に掘られた石窟で、海抜1400m、敦煌の町より300m高いところにあります。
作られ始めたのは今から1600年以上前の五胡十六国時代。敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年と考えられています。にも関わらず、今でもまだ洞窟750と、壁画45000平方メートル、色付けの塑像3000体あまりがあり、唐、宋の時期の木造建築物5棟が保存されています。
その中で、数が一番多く、内容的に最も豊かなものは壁画で、題材の範囲の幅がもっとも広いものは尊像の絵、つまり、人々が祭っている仏や、菩薩、天王及び説法像などです。
経変画はまた唐代に壁画の主体となっています。例えば、極楽の世界を広める内容の「浄土変」(図1)で、琵琶を奏でている舞い手は優雅な姿を見せています。また、唐代の建築の成熟度の高さを現している大型の経変画の西方浄土変(図2)も代表作です。
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そのほか、仏教にちなんだ物語や、経変画、史跡、供養する人たちの画像、及び民族の神話を題材としたさまざまな装飾の図案があります。例えば第320窟(図3)の2人の飛天という壁画は中唐時代の作品で空中を飛ぶ天人を描いています。第45窟(図4)の迦葉、菩薩、天王の像は柔和かつ落ち着いた様子で猛々しい天王と対比し、鮮やかに彩ってます。
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また、壁画から、帝王の巡幸や、農耕、漁労と狩猟、製鉄や醸造業、婚礼と葬儀、商業のやりとり、使節の往来、楽器の演奏や、歌ったり、踊ったりしている場面……人間社会の様々なことを、いろいろと見て取ることもできます。
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第56窟(図5)の張議潮出行図は威風堂々とした軍隊の様子を描いています。これは晩唐時代の代表的な作品で、今でも珍しい貴重な世俗画です。第249窟(図6)、2人の狩人の1人は羊を追い、1人は虎に矢を射るという壁画は北西の遊牧生活を描写しています。
ユネスコの世界遺産に登録されるにあたり、この莫高窟は、次のように点が評価されました。ある期間を通じ、世界のある文化上の地域において、建築、技術、記念碑的芸術、都市の構成又は景観の意匠に関し、人類の価値の重要な交流を提示するもの。また人類の創造的天才の傑作を表現しながらも、人類の歴史上重要な時代を示し、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積又は景観の顕著な例を示すという点です。(文:シュ コウ)
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