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 着実温厚な理論派の紳士、だが題詞にみられる「変革」という文字が示すように勇敢に改革に挑戦する人だった。

 放送テレビ相(広電部部長)に就任してすぐに手を付けたのは、中国の放送テレビ事業のなかでも「老大難」中に「老大難」であった機構改革だった。日本語部のオフィスにも姿をみせ、居合わせた若手の部員と機構改革をめぐって熱烈な議論を交した場面も懐かしい。席上、張香山さんの構想と対立するような意見も出されたが、張さんはみんなの意見に静かに耳を傾けていた。退勤時間となり、二時間ほどの討論にピリオドが打たれたが、張香山さんは「とてもよかった。面白かったよ」と言って、笑顔でみんなと握手を交して部屋を去った。

 振り返ってみれば、中国の放送テレビ事業の実状を踏まえ、深く当事者の意見を聞いた張香山さんの機構改革は、ほぼ成功だったと思う。

膝を交えて改革論議――張香山

 1967年10月6日、江青ら「四人組」が逮捕され、十年続いた「文化大革命」にピリオドが打たれた。「四人組」の拠点になっていた放送局にもその日の夜に華国鋒さんの命令書を持った接収グループが進駐し、「四人組」の手から権力を接収した。

 数日後には、接収グループのメンバーに張香山さんが入っていることがわかった。張香山さんは、1972年の中日国交正常化のさい、廖承志さんとともに中国外務省の顧問として交渉に出席した知日派である。張さんは、接収グループが引きあげたあとも放送局に残り、局長に就任した。わたしたち北京放送日本語部のスタッフは喜んだ。張香山さんは日本留学、東京高等師範学校や東京文理科大学で学んでいる。日本語ができる知日派の局長さん、日本語放送を大いにバックアップしてくれるだろうと期待したのだ。

 期待は裏切られなかった。張香山さんは、日本語番組にいろいろアドバイスしてくれただけでなく、みずから出演してくれたこともあった。張さんは留学前にも日本語を勉強しており、東京高師時代には学内の同人雑誌にエッセイ「肉体と理念」、論文「魯迅論」などを日本語で発表している。ひとことでいえば、日本語に精通しているのだ。そこで、日本のリスナーへの新年の挨拶を日本語で放送してくださいとお願いしたところ、条件つきで引き受けてくれた。その条件とは、原稿を日本語部のアナウンサーに頼んでテープに録音してもらってほしい。張さんはこのテープを家に持って帰りお手本にして練習するというのだ。仕事熱心とでもいうのであろうか、張さんのこうしたいささかも手を抜かない仕事ぶりにスタッフ一同、大いに学ばされたのを覚えている。

 張香山さんは、指導者だと偉ぶったところがなかった。よく一人で広い放送ビルのなかの各セクションを廻り、気軽に局員に接触していた。ある日のことだ。北京放送日本語部が物置兼用で使っている薄暗い部屋に、張さんがひょっこり顔をだした。居あわせた数人の若いスタッフが「放送局の機構改革について雑談していたところです」というと、張さん、「わたしも仲間入りされてもらおう」と部屋の隅の小さな硬い木の椅子に腰をおろした。二時間ほど続いた膝を交え、顔を付きあわせた雑談、意見の対立などもあったりして大いに盛り上がった。張さんは、「面白かったよ」とスタッフ一人一人と握手をし、ニコニコしながら部屋を去った。

 張香山さんは政治・経済の面の知日派であるだけでなく、生活面でも知日派である。聞いた話だが、張さんが代表団の団長として日本を訪れ、和風の旅館に泊まったときのことだ。随員の一人が張さんの部屋を覗いたところ、張さんは座敷の真ん中の畳の上で、気持ちよさそうに大の字になって寝ていたというのだ。張さんが『わが青春の日本』(日本・東方書店)という回想録で書いている半世紀前の東京・東中野の下宿の四畳半の畳の上での若き日のうたた寝を、夢の世界で再現していたのかも知れない。まるで、日本映画の一シーンを観ているような風景だったと、この随員は語っていた。張さんの「大の字」、まったく板についていたのだ。

 ちなみに、張香山さんは日本留学時代のみそ汁の味が忘れられず、『わが青春の日本』でも「今でもときどきみそ汁を作っては青春時代を思いおこしている」と書いている。

 追記:北京の秋の空は美しい。北京を訪れた梅原龍三郎画伯は、北京の秋の空を「何だか音楽を聞いているような空だった」と絶賛している。張香山さんは2009年10月10日、この美しい空に見守られて息を引きとった。

 日本留学から帰った張香山さんは、抗日戦争に身を投じ、八路軍(中国共産党の指導する軍隊)一二九師団対敵工作部副部長などとして活躍した。新中国誕生後は、外交畑の仕事に移り、中国共産党対外連絡部副部長、中日友好協会副会長、中日友好二十一世紀委員会中国側首席委員などを歴任し、一九七二年の中日国交正常化交渉のさいには、中国外交部(外務省)顧問として『中日共同声明』の起草に参画している。

 2002年には、張香山さんは90歳に近い老体に鞭打ち、精根を傾けて「回顧し、思考し、提言する」というタイトルの論文を、北京で発行している日本語月刊誌「人民中国」の紙上に発表した。この論文の提言部分で、張香山さんは次のように書いている。

 「日本は平和の道を堅持し、軍事大国の地位を求めず、中国は永遠に覇権を稱えず、大国主義にならないこと、それが両国の平和的発展を保証する」

 これは、その一生を中日友好の事業に献げた張香山さんが二十一世紀に遺したかけがえのない遺言だといえよう。

丁民先生の略歴

 1949年、清華大学経済学部を卒業、新聞総署国際新聞局に入局。1955年外務省に転勤、日本課課長、アジア局副局長を経て、1982年から日本駐在大使館公使参事官、代理大使を歴任。1992年退官。現在、中国中日関係史学会名誉会長を務める。

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