ちなみに、張香山さんは日本留学時代のみそ汁の味が忘れられず、『わが青春の日本』でも「今でもときどきみそ汁を作っては青春時代を思いおこしている」と書いている。
追記:北京の秋の空は美しい。北京を訪れた梅原龍三郎画伯は、北京の秋の空を「何だか音楽を聞いているような空だった」と絶賛している。張香山さんは2009年10月10日、この美しい空に見守られて息を引きとった。
日本留学から帰った張香山さんは、抗日戦争に身を投じ、八路軍(中国共産党の指導する軍隊)一二九師団対敵工作部副部長などとして活躍した。新中国誕生後は、外交畑の仕事に移り、中国共産党対外連絡部副部長、中日友好協会副会長、中日友好二十一世紀委員会中国側首席委員などを歴任し、一九七二年の中日国交正常化交渉のさいには、中国外交部(外務省)顧問として『中日共同声明』の起草に参画している。
2002年には、張香山さんは90歳に近い老体に鞭打ち、精根を傾けて「回顧し、思考し、提言する」というタイトルの論文を、北京で発行している日本語月刊誌「人民中国」の紙上に発表した。この論文の提言部分で、張香山さんは次のように書いている。
「日本は平和の道を堅持し、軍事大国の地位を求めず、中国は永遠に覇権を稱えず、大国主義にならないこと、それが両国の平和的発展を保証する」
これは、その一生を中日友好の事業に献げた張香山さんが二十一世紀に遺したかけがえのない遺言だといえよう。
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