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孫平化(以下、所々敬称略)は、その生涯を中日友好に捧げた人である。彼は、我々の敬愛する周恩来、廖承志の指示を忠実に実行し、周恩来、廖承志が亡くなってからも、その遺志をうけついで、大きな成果をあげた人である。孫さんと同じ頃、廖承志の直接指導のもとに働いてきた呉学文氏は、孫さんを評して「有能な全方位、全天候の対日友好活動家」と定義した。全くその通りである。彼の対日友好活動は、政治・経済・文化各界を網羅し、貿易・農業・学術・宗教・体育・囲碁・蘭・京劇・バレー等々、およそ中日間の交流で孫さんが関与しなかった分野はない。「全方位」という所以である。「全天候」というのは、中日関係の上空に黒い雲が立ち込めている時も、くもりのち晴の時も、孫さんは、中日関係改善のため全力を尽くしたからである。
孫さんの努力と活動の成果に正比例して、周恩来、廖承志の孫さんに対する信頼も厚かった。いつも、大事な役目を彼に与えた。中日国交正常化(1972年9月29日)の直前に訪日した<上海バレエ団>の団長に孫平化を任命したのは、周恩来である。孫さんは、<覚書貿易東京事務所>首席代表の肖向前とともに、田中角栄総理、太平正芳外相と会見して、周恩来の伝言をつたえ、田中、太平の9月訪中の確約をとり、中日国交正常化の実現にこぎつけた。歴史にのこる大きな仕事であった。
孫さんが会って話をした日本人は数え切れない。彼の日記には1頁ごとに平均3~4名の日本の友人の名前が出てくる。我々のよく存じ上げているなじみ深い友人の名前もあれば、全然知らない人の名前も出てくる。孫さんの日本における知名度は、日本の与野党の代議士たちの遠く及ばないところであろう。
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孫さんは、後輩たちを分け隔てなく可愛がった。後輩たちも、孫さんに対しては、遠慮というものを知らなかった。後輩たちが仕事の残業で遅くなったり、あるいはどこかで遊びふけって夕食の時間が過ぎてしまったときは、「本司胡同に行こう」というのが合言葉になっていた。「本司胡同」とは、当時、孫さんの自宅があった横町である。まだ携帯電話のなかった頃だったから、何の前ぶれもなく、しかも集団で押しかけていく。玄関に入ってくるなり、「先輩!腹が減っています」と叫ぶ。当時、独身の若輩たちにとっては、北京市内に飯屋も少なく、皆が薄給に甘んじていた時代だから、職場の食堂の時間を逸したら行くところがない。孫さんの家にたかりに行こうというわけである。今にして思えば、孫夫人の関毅さんにとっては、甚だ迷惑なことだったに違いない。孫さん夫婦の給料は我々よりは多かっただろうが、それほど多いものではなかったはずだ。この悪童たちのたびたびの襲撃のため、孫さん一家は、ふだん人一倍きりつめた生活を強いられたに違いないと思う。関毅さんは、その頃、ある貿易公司の課長をしていて、本人の仕事も忙しかった。孫さんは出張が多かったから、一人で子供たちの世話と教育をうけもち、内助の功は大きい。
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