丁民先生が語る中日交流② 内山完造先生
1959年の9月のある日、北京滞在中の鈴木一雄先生に何かの用事があって、私は同僚一人と一緒に<北京飯店>に鈴木先生をたずねた。鈴木先生は、外出中であったが、約束の時間にはもどって来た。我々の顔を見るなり、「内山さんが亡くなった」といった。「内山さん」とは、北京に到着したばかりの内山完造先生のことである。そして、鈴木先生は我々に背を向け、「内山さんも中国で死んだから本望だろうな」と、ひとり言のように言い、ハンカチを取り出して涙をぬぐっていた。その言葉を聞いて、私も眼がしらをおさえた。
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中国の「読書人」で、内山完造を知らぬ人はいない。魯迅を読んだ人は内山完造を知っている。内山さんは、魯迅の親友であったし、色々と魯迅を助けた。魯迅の臨終にも、枕元にかけつけている。新中国成立後、内山さんは、日中友好協会の創立者の一人であり、初代理事長をつとめた。内山さんは、その一生を通じて中国人と心と心の交流をした日本人である。
私個人の場合は、子供のときから内山先生を存じ上げている。上海で中学校に通った私は、家が<内山書店>の近くにあった。<内山書店>は北四川路の北のつきあたりにあり、二軒の店舗が他人の店一軒を中にはさんで南向きにならんでいた。私の家から<内山書店>までは歩いて十分もかからない。放課後はよく立ち読みに行った。他の書店では十分以上も立ち読みをすると店員が追い出しに来る。買わないくせに長時間立ち読みされては、本も痛むし迷惑であったに違いない。ところが、<内山書店>にはそれがなかった。一時間でもそれ以上でもOKである。私は、学校の授業はそれほど復習しなかったが、色々な雑誌や本を読みあさるのが好きで、友達が読んだという本は、必ず、<内山書店>に読みに行った。時には、学友との待ち合わせの場所としても利用した。我々学友の間では、内山先生は「内山のおやじ」で通っていた。
二軒東と西にならんだ<内山書店>のうち、たしか西側の店の奥に藤椅子が幾つか置いてあって、内山のおやじは、ここで来客に会っていた。後で知ったことだが、この藤椅子に坐っていた来客は、皆、中国と日本の文人墨客たちであった。魯迅先生も、ここに度々坐っていたに違いない。内山のおやじは、この部屋で、真夏の暑い日を除いては、いつも羊羹色のスウェーターを着ていた。声は濁声であったが、よく透ける声だった。
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