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日中交流を語る⑤   D氏の場合

 北京の住民は、毎年、夏になると山海関の近くの避暑地――北戴河、南戴河に出かける人が多い。大きな海水浴場があり、白い砂浜が心地よい。我が家でも、例年、そうであった。ところが、2001年に孫娘が生まれてから青島に行くことになった。息子の嫁の実家が青島にあるため、夏休みには、孫娘と遊ぶために行くのである。療養地としての青島はすばらしい。北戴河などより数倍も立派な海水浴場が幾つもあり、海から吹いてくる風が、夏を感じさせない。

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 その青島で、D氏という私と同年輩の男と親しくなった。中国人民解放軍の退役将校である。D氏は、もともと河北省の出身で、父親が日本軍の占領下の北戴河で郵便局長をしていた。部屋が七つもある洋館に住んでいたというから、当時の中国人としては、割に裕福な生活をしていたことになる。

 D氏は、中学校を卒業してから、河北省邯鄲市にある棉業専門学校に入学した。この学校は、日本人が作った学校で、校長は日本人、しかも佐官級の予備役軍人だった。学生は半分が日本人、半分が中国人で、授業の内容は、綿花の栽培から綿紡績までの学科や実科が主だったが、日本の歴史や地理も教えた。三学年制で、最初の二年間は中国で、最後の一年は日本に行って勉強する仕組みになっていた。

 D氏は、もちろん日本語を解する。今でも昔の日本の流行歌が歌える。そうした経歴のせいか、D氏はその話ぶりやちょっとした仕草などがどことなく日本人に似ている。腰の右後に真っ白な手拭いをぶらさげた姿などは、その当時の日本人学生のものだ。彼の出身の家庭も、彼本人の経歴も、親日派とはいえないまでも、少なくとも思想的に反日ではなかった。

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 D氏の学生生活に突然異変がおこったのは、1944年の夏休みのことである。その学校は、全寮制だったが、舎監は、下士官あがりの日本人で、この男が、時々、寮生に気合いをかける。D氏は、夏休みになっても親もとに帰省せず、寄宿舎で学友たちとぶらぶらしていた。

 ある日、寄宿舎の廊下に、中国共産党の宣伝ビラが貼られた。それは、「共産党の指導する八路軍が、邯鄲郊外の農村まで来ていて、日本軍は、都市と鉄道線を支配しているにすぎない。河北省の広大な農村は、八路軍の抗日根拠地になっている。日本はもうすぐ負ける。日本の侵略戦争に協力するな」、という内容のビラだった。舎監に見つかると大変なので、D氏たち中国人学生は、別棟に住む日本人学生に知られないように、廻し読みしてからビラを焼き捨てた。このビラの内容もショックだったが、もっと大きなショックが後からやって来た。

 夏休みが終わって、多くの学生が帰省先からもどって来た。その内の一人が、ビラのことを伝え聞いて、その内容を教えろ、といいだした。D氏は、他人に聞こえるとまずいので、紙に書いて見せることにした。D氏の記憶にしていない部分は、もう一人のルームメイトが補った。ほとんど書き上げたころ、点呼の時間になった。全員が自分の部屋の前の廊下に整列し、舎監が敬礼を受けながら見てまわる。点呼のベルが鳴ると同時に、そのルームメイトは、慌ててビラの内容を書いていた紙をズボンのポケットに突っ込んで廊下に出た。運の悪いことに、舎監がちょうど部屋の前に来ていて、その紙は何だ、出して見せろ、と迫った。大変なことになった。筆跡鑑定をするまでまもなく、それはD氏とそのルームメイトの字だということはすぐ分った。

 次の日、この二人は、邯鄲市の日本憲兵隊に引っ張られえて、毎日のように拷問をうけた。顔が腫れるほど殴られて、前歯が二本折れたが、そのビラを誰がもって来て、寄宿舎の壁に貼ったのかは、D氏は本当に知らない。「本当に知りません」と答えると、係りの憲兵は、吸っていた煙草の火をD氏の頭にこすりつけてもみ消した。結局は、約二ヶ月間拘置されて、釈放された。十七歳の多感な青年にとって、この体験は、身にしみた。この屈辱が、D氏の頭の中に、それまでなかった抗日思想を芽生えさせた。

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 日本軍憲兵隊の拘置所には、中国人だけでなく、日本人の囚人もいた。ところが、同じ獄舎につながっていても、日本人と中国人とでは食事が違うのである。内容が違うばかりではなく、食事の回数も違う。日本人は一日三食であるが、中国人は二食、つまり昼抜きである。

 D氏と同室に朝鮮人が一人いた。D氏より七、八歳年上の知識人風の青年だった。その当時、朝鮮人は日本国籍ということで、三食待遇であったが、昼食になると、自分のご飯とおかずを、半分、D氏に分けてくれた。

 その朝鮮人は、D氏に言った。

 「自分は恐らく出獄できないだろう。死刑は覚悟している。やるべきことは十分やったから、もうこの世に未練はない。君は、その程度のことだから、いずれは釈放される。もうしばらく辛抱することだ。そして、自分は、共産党員である。共産党は、人民に奉仕する政党である、人民の利益だけを追求している。今、日本軍の占領地域のまわりにある抗日根拠地は、共産党が指導しているのだ」と。

 そして、その抗日根拠地に行くには、どう行けば安全にいけるか、などを丁寧に教えた。D氏には、彼の一言一言が新鮮に聞こえ、それが暗闇の中にもひとすじの光明となった。目からウロコがおちるとはこういうことか、出獄したD氏は、自宅にも学校にも帰らず、両親あての手紙を信頼する友人に頼んで、そのまま邯鄲市郊外の八路軍のもとに直行した、という。

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 D氏は、今、孫が何人もいて、毎日、笑顔のたえない生活をしているが、中日関係の発展に対する関心は強い。日本と中国が、再び戦争をするようになってはならない。私に会うと、何時も、最近の日本の情勢について話せという。もっと話せ、もっと話せとせっつく。

 彼は、周恩来総理の「中日両国人民は、世々代々、仲良くしよう」という対日方針には、大賛成である。両国関係は、益々、緊密になっていくに違いない、と展望する。ただ、先の小泉総理の靖国神社参拝には、危険なものを感じる、という。

丁民先生の略歴

 1949年、清華大学経済学部を卒業、新聞総署国際新聞局に入局。1955年外務省に転勤、日本課課長、アジア局副局長を経て、1982年から日本駐在大使館公使参事官、代理大使を歴任。1992年退官。現在、中国中日関係史学会名誉会長を務める。

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