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丁民先生が語る日中交流③  鹿児島と鹿屋

 一九八二年の夏、東京の中国大使館勤務になってから間もなく、共同通信社から日本各地の加盟新聞社が主催する<政経懇話会>で講演するよう頼まれた。<政経懇話会>とは、一種の勉強会である。おかげで、私は、日本の都道府県ほとんど全部をまわることが出来た。

 その中の一つに鹿児島県があった。テーマは、「最近の中国事情と日中関係」である。鹿児島市内の会場と鹿屋の会場でしゃべるので、三泊四日の旅であったが、到着した日の晩は、主催者<南日本新聞社>の幹部たちが夕食をご馳走してくれながら、鹿児島県の一般事情について説明してくれた。これは、大変、勉強になった。唐の鑑真和尚が、日本に上陸した場所が鹿児島県内の坊ノ津であったことも、この時はじめて知った。

 主人側の編集委員の一人に、食文化史を研究している専門家がいた。彼の研究成果によれば、中国でも昔、宋の時代以前には、刺身を常食していたというのである。元の時代になってから、一時、伝染病が流行った。原因は、生の魚をたべたからだということになった。元の統治者、海をみたこともない蒙古族である。もともと肉食をしてきた人たちにとって、生魚を食するなどということは、薄気味悪いことだったに違いない。元の皇帝は、お触れを出し、海岸地方の住民以外は、生の魚を食べてはいけない、ということになったというのである。鹿児島に来て、中国の歴史を習うとは思っていなかったが、あり得る話だと思った。

 二日目は、午後から<城山ホテル>の会場で講演をしたが、午前中は、島津の殿様が近代化をはかるために輸入した、西洋の機械類や計器類の展示場に案内してくれた。その頃にしては、随分と進歩的なことをしたものだと思い、薩摩藩士が明治維新の先頭に立った理由が、分かったような気がした。その次は、<南州墓場>にも案内してくれた。<西南の役>で敗北して自尽した西郷隆盛以下数十人のお墓である。新しい流れをつくったのも薩摩、その流れに強く抵抗したのも薩摩か、と不思議な気がした。

 三日目は、いよいよ鹿屋の会場で講演することになった。もとの予定では、フェリーで錦州湾を横切り、その途中で桜島にも立ち寄ることになっていたが、前夜からの雨が嵐になり、船で行くのは諦めて、車で錦州湾を一周することになった。篠つく雨で、車の外の風景はぼやけてよく見えない。それでも、真紅の花が時どきみえる。燃えるような赤さである。聞くと花の名前は、彼岸花というのだそうだ。その日の早朝テレビの俳句教室で「新涼」という題で、先生が応募者の句を添削していたのを思い出し、私も一句ひねってみた。

  新涼や 篠つく雨に 彼岸花

 この句は、自分のノートに書きとめただけで、誰にもみせていないので、俳句といえるかどうかは、今だにわからない。

※     ※    ※

 鹿屋に対する予備知識は、戦時中、海軍特攻隊の基地で、多くの若者が飛行機とともに米軍の艦船に体当たりして死んでいったということ、今は自民党の二階堂進先生の選挙区だということ位だった。会場につく直前、案内者が耳うちしてくれたことは、ここの<政経懇話会>の勉強会には、鹿屋に駐屯する<海上自衛隊航空隊>の士官たちが数十名傍聴にくるのが恒例になっている、ということだった。若い自衛隊の士官たちと対話が出来ることは願ってもないことなので、無論、私には異論はない。

 会場に入ると、入口に大きな会議用のテーブルが置かれていて、白い軍帽がきちんと並べてある。聴衆は、地方の会員が約二十名、海上自衛隊の士官が約三十名、姿勢を正して坐っている。こんなに多くの現役自衛官と一堂に会することが出来るのは、日本に来て初めてのことであり、嬉しかった。

 私が約一時間半しゃべって、約三十分の質疑応答の時間に入った。私の期待していたとおり、青年将校たちの質問は活発だった。それぞれ的を射た質問である。私は、出来るだけ丁寧に説明した。満足してもらえたものと思う。

 多くの質問の具体的内容は覚えていないが、未だに記憶しているのが一つある。丁度、その数日前、アメリカからソウルに向かう<大韓航空>の旅客機が、カムチャッカ沖でソ連の軍用機に撃墜された事件があった。これについてどう思うか、という質問がある。私は、「如何なる理由があったにせよ、普通の旅行者がたくさん乗っている民間航空機を撃墜するということは許されることではない」と答えた。質問した青年将校は、これで納得したようであった。

 実は、この質問は、私が最初に受けた質問ではない。鹿児島に行く前の日、あるパーティーで、外務省の橋本恕・アジア局長と出合った。橋本さんは、私にソ連軍用機の大韓航空撃墜事件についてどう思うか、とたずねてきた。橋本局長は、日中国交正常化の時の中国課長であったし、その後、北京の日本大使館にも勤務しており、中国の対外政策は熟知している。その当時、中国と韓国は、まだ、国交正常化していなかった。私は、「どっちもどっちじゃないの」と答えた。橋本局長は、大声で笑いながら「どっちもどっちだよねえ」と相槌をうってくれた。

 私と橋本局長は、時々こうして本音の会話を楽しんだ。

丁民先生の略歴

 1949年、清華大学経済学部を卒業、新聞総署国際新聞局に入局。1955年外務省に転勤、日本課課長、アジア局副局長を経て、1982年から日本駐在大使館公使参事官、代理大使を歴任。1992年退官。現在、中国中日関係史学会名誉会長を務める。

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