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渡来人と帰化人(2)

 (鑑真和上)

 1978年の秋、私は、「中日平和友好条約」批准書交換のために訪日した鄧小平に随行した。東京での行事を終えて、奈良に行ったときのこと、唐招提寺に案内され、鑑真和上の座像を至近距離で拝むことが出来た。あゝこの人が5回も失敗して、6回目にやっと日本にたどりついた偉人か、と感慨深かった。

 唐招提寺の全体としての雰囲気は、100%日本的なものだった。「招提」とは、お寺という意味だそうである。わざわざ、唐のお寺、という意味の名前をつけたのに、私には、日本風のお寺のように見えた。松尾芭蕉の「若葉しておん目の雫 ぬぐわばや」とよんだ俳句も、日本人としての鑑真和上をうたったようにきこえる。私は、和上の座像の前に正座して、「和上、あなたは完全に日本に融けこみましたね」とつぶやいた。

 鑑真和上は、多数の名僧を連れて行っただけではなく、美術、建築、仏像、製糖などの技術者も同行していた。又、和上本人は、すぐれた医術を身につけていた。当時の日本の朝廷と国民の全幅の信頼をうけたのは、当然であろう。

 1992年、二度目の日本勤務から帰国して、私は、上海や紹興に行ったついでに、揚州を訪れたことがある。鑑真和上が日本に行く前に住職をしていた大明寺が見たかったからである。大明寺は、奈良の唐招提寺のように小じんまりしたものではなく、非常に広い面積の境内をもっていた。本堂のそばに、鑑真和上が苦労して日本に行ったことを展示する記念堂があった。広い境内の一角に四角い塔が立っていたが、そこでひとつ思いついたことがある。

 鑑真和上のお名前は、日本語で何故「カンシン」と読まないで、「カンジン」と読んでいるのだろうか。これは、当時、和上と一緒に日本に行った人たちの中国語の発音が、そのまま日本語になってしまったのに違いない。その塔が、昔からあるものか、新しく建てなおしたものか、判断がつかなかったので、近くにいた寺男とおぼしき人にたずねた。彼は、昔あった塔は、六角の塔だったが、近年、建て直して四角になったのだ、と教えてくれた。親切な人だった。

 その時、彼の言った「四角」と「六角」の発音が北京語とは程遠く、日本語に酷似していた。なんと「シカク」、「ロクカク」ときこえた。私は、鑑真和上が日本に行ったときも、この人と同じ発音をしていたのだろうと想像して、理由もなく嬉しかった。

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(傅教大師)

 東京で勤務していた頃、ある日、岡崎嘉平太先生と日本の仏教の話しをしていたとき、岡崎先生が弘法大師に並び称せられる傅教大師―最澄の祖父は、中国から移り住んだ帰化人だと教えてくれた。岡崎先生は、比叡山でその関係文書を見せてもらったと言われた。

 私は、傅教大師が入唐して比較的短い期間で学問の成果をあげて帰朝しているのは、彼が、中国語を子供のときから身につけていたからではないか、と想像した。あるいはその頃の日本の知識人の青年は、歸化人の家庭でなくても、話し言葉はともかく、文章語としての漢文は、全員がマスターしていたのかも知れない。

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(武林唯七)

 東京では、ときどき三田にあった三鶏通商(株)の社長・藤吉一樹さんのところに遊びに行った。彼は、東京都日中友好協会の理事長ををつとめていたこともあり、若い頃には学生運動や組合運動の先頭に立っていた活動家でもあったようで、なかなかの理論家である。

 私は、彼の話を聞くのが好きだった。彼と話していると、世の中の大体の動きがわかったような気がしてくる。ある日、藤吉さんは、中臣蔵の話をはじめた。なんと四十七士の中の一人に中国人の孫がいるというのである。

 武林唯七(タケバヤシ・タダシチ 1672―1703)の祖父・孟治庵は、孟子61代目の子孫で、清朝初期、杭州の武林郡の生まれだが、日本に帰化して赤穂藩の医官となり、はじめは生まれ故郷の武林を姓にしたが、後に渡辺家の女子と結婚して、渡辺姓を名乗った。唯七には、兄がおり、兄が渡辺家をつぎ、唯七は、分家して浅野家に仕え、武林を名乗った。

 四十七士が吉良家に討入ったとき、炭小屋にかくれていた吉良上野介をみつけて討ちとった二人のうちの一人が唯七であった。唯七の兄・渡辺半右衛門は、弟・唯七の功績により、広島藩・浅野本家に召し抱えられ、武林勘助と改名したという。

 藤吉さんは、四十七士のお墓が芝の高輪・泉岳寺にあると教えてくれた。泉岳寺は、三田からさほど遠くない。私は、その足で泉岳寺に行き、武林唯七のお墓参りをして来た。

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(蘭渓道隆)

 東京勤務がおわり、北京に帰って来てからしばらくして、私が、兄事していた高橋庄五郎氏の訃報がとどいた。悲しかったが、日本に飛んでいくこともかなわず、未亡人あてに弔電を出すだけで我慢した。

 高橋さんは、戦後の日中貿易に最初からたずさわった人であり、高庄(タカショウ)株式会社の社長だったが、文筆家でもあった。会社をたたんでからは、葉山で隠居生活をしていた。葉山のお宅は、東海道線の逗子駅から近く、私は、よく日曜日に葉山のお宅にうかがって高橋さんと議論した。高橋さんのところには、高橋さんを慕う現役の新聞記者たちが出入りしていて、彼はいつも内外情勢の最近までの動きを、大体、把握している。高橋さんの指摘する問題は、的(マト)を射たものが多く、私は、大へん勉強になった。

 高橋さんが亡くなってから一年ほど後に、私は、ジョージ・ワシントン大学によばれて、北東アジアの平和に関するシンポジウムに出席し、その帰途、東京にたちよった。高橋さんのお墓まいりがしたかったからである。お墓は鎌倉の建長寺にあった。私の計画を知り、岡崎嘉平太先生の長男・彬(アキラ)さんが自分の愛車ジャガーでわたしを長建寺まで運んでくれた。長建寺に着いたら、高橋未亡人・貞子さんが山門の前で待っていた。お墓は、割にさがしやすい場所にあった。その位置は、高橋さん本人が生前にきめたのだという。私は、いろんなこよを思い出しながら、お墓の前に佇んでいた。

 お墓参りがすんで、お寺の境内を歩いていたときはじめて知ったのは、建長寺を閑山したのは南宋の高僧・蘭渓道隆(ランケイ・ドウリュウ 1213―1278)だということである。蘭渓道隆は、1213年、四川省に生まれ、成都の大慈寺で仏門に入り、諸山行脚の後、臨済宗の無明慧性(ムミョウ・エショウ)禅師に師事した。当時、入宋していた泉涌寺の日本僧・月翁智鏡(ガットウ・チキョウ)と交わり、日本の事情を聞いて訪日を決心し、1246年、33才のとき、弟子数人をつれて博多に上陸した。大分県の九重町にある龍門寺は、彼の創建による。その後、京都をへて鎌倉に行き、ときの執権・北條時頼に請われて、建長寺を開山(1253年)、日本に新しい禅風を起こし、数々の業績を残して、1278年、66才、建長寺で病歿した。日本の朝廷は、「大覚禅師」というおくり名をおくった。以上の知識を頭に入れて、私は、東京にもどる車の中で、今ごろ、高橋さんは、あの世で大覚禅師を相手に、今後の中国と日本の関係について議論しているに違いない、と思った。

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(何欽吉)

 私は、友人の来住新平さんのお世話で、宮崎県・都城(ミヤコノジョウ)市を訪れたことがある。来住さんは、都城市日中友好協会の会長をしておられる。都城は、鹿児島県に近く、言葉も鹿児島県辯を使っていた。資料によれば、日本の戦国時代の末期から明国の船が都城領内に漂着しており、その頃から、中国人が住んでいた町を、唐人町(トジンマチ)とよんでいる。今に残る史跡として、「何欽吉の墓」(1934年4月、宮崎県文化財)がある。

 何欽吉(カキンキツ)は、広東省・潮州の人で、1646年、都城領内の大隅半島・内之浦に漂着して唐人町に住みついた。何欽吉は、医術に長じていて、領主・北郷(ホンゴウ)家に仕え、知行20石をもらっていたという。何欽吉は、都城領内で高麗人参によく似た野生の「和人参」を発見し、その効能を地元の住民に説明したので、何欽吉の名が広く知られるようになり、彼の著した医学の本も多かったので、都城地方では、漢方医として「医学の祖」といわれるようになった。島津家15代久直の未亡人に処方し、高い評価をえたという。何欽吉の墓の傍には、大きな説明板が立てられており、今でも献花が絶えない。

 今、都城市内に住む天水(テンミズ)、江夏(エナツ)、清水(シミズ)、済陽(ワタリヨウ)、という苗字の人たちは、何欽吉と同じ船で漂着した中国からの帰化人の子孫だといわれている。

 私は、都城を離れるとき、来住さんに感謝の言葉をのべると同時に、「貴方の苗字も、帰化人のような苗字ですね。つまり渡来して住みついたというのではないですか」と、冗談のつもりで言ったら、来住さんは、真剣な表情で、「そうかもしれませんね」と、言われた。九州南部は、中国大陸からの船の漂着が多かったところである。

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 (柳谷謙介)

 中日国交正常化(1972年9月29日)の直後、北京に日本大使館が出来て間もなく、後に外務事務次官になった柳谷謙介氏が公使として赴任して来られた。当時の日本の新聞は、これを「先祖返り」と報道していた。ご本人の話によれば、柳谷家は、代々、長崎で唐通事をつとめた家柄で、先祖は、中国からの帰化人である。長崎では、今でも、昔、柳谷家の屋敷のあった界隈が柳谷町という地名になっているという。帰化人の子孫は、、昔話だけにあるのではなく、今の私の知人にもいた。

 私は、講演に呼ばれて長崎を一度訪問したことがある。長崎には、崇福寺、興福寺、福済寺など<長崎三大唐寺>と呼ばれる昔からの華人寺があり、孔子廟もある。こちらのお寺や廟は、日本の戦国時代末期から江戸時代にかけて、長崎にやってきた中国商人たちが建てたものである。その頃、長崎の中国人人口は非常に多かった。

 日本最古の石橋と言われる美しい「眼鏡橋」は、中国の僧・如定が、1634年に築造したものだと伝えられている。「国姓爺合戦」で有名な明の将軍・鄭成功は、長崎県・平戸市の生まれであった。私は、長崎の町角に立って、このへんで石を投げたら、帰化人の子孫にあたるのではないか、と思った。

丁民先生の略歴

 1949年、清華大学経済学部を卒業、新聞総署国際新聞局に入局。1955年外務省に転勤、日本課課長、アジア局副局長を経て、1982年から日本駐在大使館公使参事官、代理大使を歴任。1992年退官。現在、中国中日関係史学会名誉会長を務める。

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