(傅教大師)
東京で勤務していた頃、ある日、岡崎嘉平太先生と日本の仏教の話しをしていたとき、岡崎先生が弘法大師に並び称せられる傅教大師―最澄の祖父は、中国から移り住んだ帰化人だと教えてくれた。岡崎先生は、比叡山でその関係文書を見せてもらったと言われた。
私は、傅教大師が入唐して比較的短い期間で学問の成果をあげて帰朝しているのは、彼が、中国語を子供のときから身につけていたからではないか、と想像した。あるいはその頃の日本の知識人の青年は、歸化人の家庭でなくても、話し言葉はともかく、文章語としての漢文は、全員がマスターしていたのかも知れない。
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(武林唯七)
東京では、ときどき三田にあった三鶏通商(株)の社長・藤吉一樹さんのところに遊びに行った。彼は、東京都日中友好協会の理事長ををつとめていたこともあり、若い頃には学生運動や組合運動の先頭に立っていた活動家でもあったようで、なかなかの理論家である。
私は、彼の話を聞くのが好きだった。彼と話していると、世の中の大体の動きがわかったような気がしてくる。ある日、藤吉さんは、中臣蔵の話をはじめた。なんと四十七士の中の一人に中国人の孫がいるというのである。
武林唯七(タケバヤシ・タダシチ 1672―1703)の祖父・孟治庵は、孟子61代目の子孫で、清朝初期、杭州の武林郡の生まれだが、日本に帰化して赤穂藩の医官となり、はじめは生まれ故郷の武林を姓にしたが、後に渡辺家の女子と結婚して、渡辺姓を名乗った。唯七には、兄がおり、兄が渡辺家をつぎ、唯七は、分家して浅野家に仕え、武林を名乗った。
四十七士が吉良家に討入ったとき、炭小屋にかくれていた吉良上野介をみつけて討ちとった二人のうちの一人が唯七であった。唯七の兄・渡辺半右衛門は、弟・唯七の功績により、広島藩・浅野本家に召し抱えられ、武林勘助と改名したという。
藤吉さんは、四十七士のお墓が芝の高輪・泉岳寺にあると教えてくれた。泉岳寺は、三田からさほど遠くない。私は、その足で泉岳寺に行き、武林唯七のお墓参りをして来た。
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