北京
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ロシア語アナウンサーでジャーナリストの瞿独伊さんは、1921年11月浙江省萧山市生まれ。1946年8月に中国共産党に加入しました。若き頃、軍閥に逮捕され、投獄されたことがある独伊さんは、新中国成立式典ではロシア語を使って、全世界に向けて毛沢東主席のスピーチを伝えました。のちに、夫と共に中国初代の外国駐在記者としてモスクワへ赴き、中国の国営通信社である新華社通信のモスクワ支局の開設に携わりました。独伊さんは生涯、名利と地位を追い求めず、共産党員としての崇高な品格と気品を保ち続けています。
女性解放運動家の楊之華氏を母に、著名なプロレタリア革命家の瞿秋白氏を継父に持つ独伊さんは、モスクワ開催の中国共産党第6回全国大会の会場を訪れた唯一の生存者でもあります。
1928年6月から7月にかけて、中国共産党第6回全国大会はモスクワ郊外の別荘で開催されていました。正式代表には、瞿秋白、任弼時、周恩来、羅亦農、楊尚昆、陸定一ら初代指導者たちの名があります。当時、7歳だった独伊さんは両親と共に、会場に忍び込みました。会期中は、代表たちを守るために人目をくらます役割を果たし、休会中は、雰囲気を和ませるため、踊りやパフォーマンスを披露しました。
1930年、瞿秋白・楊之華夫妻は指示を受けて帰国することになりましたが、当時の国内情勢では、子供をつれての秘密的な革命活動がとても危険な状態だったため、二人は娘をモスクワの国際児童施設に預けて帰国しました。
1941年、母親の同伴で、独伊さんはモスクワを離れ、新疆経由で帰国しました。ところが、新疆の迪化(ウルムチ市の旧称)では地元の軍閥・盛世才に逮捕され、収監されました。一緒に投獄されたのは、延安から新疆に派遣された革命人士や新疆で療養中の紅軍幹部とその家族で、合わせて約150人にも上りました。中でも、中国共産党の指導者でもある陳譚秋、毛沢民、林基路が無残にも殺害されました。刑務所では、彼女は戦友とともに処遇改善を求めて、断食闘争などを行ったほか、亡くなった戦友への記念活動や様々な抗議活動にも参加しました。
1946年、党中央の救出作業により、一行は助かって延安まで護送されました。独伊さん後日、インタビューに対し、「刑務所の中で、党員たちが組織内部の学習会を開催したのをそばで見ていたので、共産党に対する理解が深まり、共産主義のために生涯をささげようと決意した」と独伊さんは語りました。
「両親から譲り受けた一番の宝は」という問いに対し、独伊さんは「国を愛する心だ」と答えました。
1949年10月、天安門で行われた新中国の成立式典では、彼女はロシア語のアナウンサーとして、天安門の上から全世界に向けて毛沢東主席のスピーチを伝えました。「私にとって、生涯忘れられない、誇りに思える日だった」と独伊さんは振り返りました。
1950年3月、新華社通信がモスクワで支局を設置することになり、独伊さんは夫の李何さんが初代特派員に命じられ、支局設置の仕事に携わりました。二人は、新中国から外国に派遣された初代の海外特派員となりました。