北京
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中国共産党はこの7月1日に創立100周年を迎えます。これに際し、横浜国立大学の村田忠禧名誉教授がCRIのインタビューに応えました。村田氏は河北省遵化市沙石峪村での見聞を「新中国の変化の縮図」として捉え、「現実から出発し、人民に依拠して、時と共に進化してきたからこそ、中国共産党は活力を保ち続けることができた」と話します。
1971年12月、村田さんはある日中友好団体の一員として、初めて中国に足を踏み入れました。たくさん訪れた目的地の中で、河北省遵化市(当時は県)の沙石峪村(当時は「生産大隊」)で見聞きしたことが特に印象に残ったと振り返ります。
土地にも水にも恵まれなかったこの村の起源は、日本からの侵略を逃れるために、本来であれば人間が居住するには不向きな山間部に各地から集まった人々が集落を作ったというものでした。自然環境が厳しく、農業に適さず、沙石峪は長い間「貧困村」として知られ、基本的な食糧すらも国からの支援に頼っていました。
1971年12月 日本からの来客に村の計画を説明する沙石峪の張貴順書記(村田忠禧さん撮影)
村田氏一行が現地を訪れた1971年ごろ、この村では張春順党支部書記が率いる村人たちが、つるつるの石板に遠方から土を運び入れては畑として整備し、岩肌に穴をあけて井戸を作るなど、村中が生活の基盤を整えることに全力をあげている最中でした。古代中国には「愚公移山」という伝説があります。それは、2つの山の北側に住んでいた「愚公」という老人が、出入りに不便していたために山を移そうと決意し、岩を崩しては土を運び続け、ついには山を動かしてしまったというものです。中国語の授業を通してこの伝説を知っていた村田氏は、「現代の愚公」となって村の改造に取り組む人々を目にし、驚かされたと言います。
1971年12月 沙石峪の様子(村田忠禧さん撮影)
1971年12月 沙石峪の様子(村田忠禧さん撮影)
数十年にわたる取り組みの成果が実り、今日の沙石峪は青々とした森林に覆われ、ブドウ栽培で名をはせる、エコツアーの人気観光地として知られるようになりました。
2017年の沙石峪 ドローンによる空撮(新華社通信 資料写真)
沙石峪という山村で起きたこの変化について、村田氏は「中国が地球上から貧困をなくすために奮闘した具体的な結果の一つ」と評価し、この変化は共産党のリーダーシップによって実現したものだと指摘します。
「村人たちはかつての困窮した生活を忘れておらず、共産党に対する揺るぎない信頼がある。重要なのは、共産党は中国が直面する現実を踏まえたうえで、政策の調整を行ってきたということだ」と語る村田さんは、その具体例として、改革開放の総設計師と称された鄧小平氏は「中国は『革命と戦争』の時代ではなく『平和と発展』の時代に入った。経済建設を第一の任務と捉えてすべてを処理するように」と主張し、「貧困は社会主義ではない」と断言して、人々が知恵を絞って豊かさを追求することを積極的に奨励したことに言及しました。村田氏は、中国共産党は現実から出発するという「実事求是」の精神を貫いたからこそ、「改革開放」と40年余りにわたる経済成長を実現したと分析します。
さらに、鄧小平氏が経済建設と同時に打ち出した「共に豊かになる(共同富裕)」という理念にも注目すべきだと強調します。これは、条件の整った沿海部から先に豊かになることを認め、沿海部は活力を付けたうえで内陸部、特に西部地区の発展のためのけん引力となり、共に豊かになる道を開拓するという戦略でした。
「中国は自国だけが豊かになるのではなく、世界各国が共に豊かになる社会を作ることを目指している」、「共に豊かになる」という理念は中国が打ち出した「一帯一路」構想にも共通する発想だとし、「習近平氏はそのために、改革開放をいっそう積極的に進めると表明している。これは非常に正しいことだと思う」と村田氏は語りました。
(取材・記事:王小燕 校正:梅田謙 写真提供:村田忠禧)